空色デート

「さあ、行こう、ロイエンタール」
ミッターマイヤーが、笑顔で振り返り、自分に手を差し出してくる。辺りの景色は黄昏でいっぱいで、その、目にも鮮やかな夕陽を背にして佇むミッターマイヤーの蜂蜜色の髪が、赤く、黄色く染め上げられた空に今にも溶けてしまいそうに美しかった。ロイエンタールは自分に差し出された手を掴む為に、足を踏み出そうとした。けれど、どうしてか身体が動かない。まるで吸い付いたかのように、足が地面 に固く繋ぎとめられている。せめて腕を伸ばそうとしても、自分の両腕はぴくりとも動いてくれなかった。そのうちに夕陽の眩しさは益々激しくなって、目を開けているのも辛くなった。けれどミッターマイヤーの姿を見失いたくなくて、顔を顰めて目を眇めながらも、彼を見つめていた。ミッターマイヤーが「どうして来ないんだ」と笑いながら訊いてくる。身体が動かないのだ、と言おうとしても、声が出なかった。必死に喋ろうとしても、口すらも開かない。焦る心と比例するかのように、夕陽の光はどんどん強くなっていき、息を詰めた瞬間、まるで爆発するようなオレンジ色の光が眼前に弾け、ロイエンタールは思わず目を瞑った。身体を押し包むその光の熱に、灼き尽くされてしまいそうだと思った。そうして、漸く熱も去った頃、恐る恐る目を開けてみれば、辺りは漆黒の闇だった。ロイエンタールは無性に寂しくて、どうしようもなくなった。彼を、見失ってしまったから。

(やっぱりお前の手を掴めなかった。一緒に行きたかったのに)


ピピピピピピ……。
耳障りな電子音が、鼓膜を忙しなく叩いた。ロイエンタールは思い切り顔を顰めながら、緩慢な仕草で布団から腕を伸ばし、枕元で鳴り響いている目覚まし時計を止めた。遮光のカーテンの隙間から、差すように朝日が突き出して、丁度ロイエンタールの顔面 に直撃していた。眩しさに益々忌々しげに眉根を寄せ、彼はベッドから起き上がった。
嫌な夢を見たと思った。眩しい夕陽。手を差し伸べるミッターマイヤー。動けない自分。そうして酷い孤独感。どうしてこんなに現実を反映した夢を見なければならないのか。夢なら夢らしく自分の願望の一端なりを叶えてくれれば良いのに。そこまで胸中で呟いて、ロイエンタールは思考を止めた。詮無き事を考えた、と皮肉げに口端で笑って、シャワーを浴びる為に部屋を出て行った。
今日は久しぶりの休日だった。ここのところ軍務が異常に忙しく、だから今日のようなたまの休日は一日中何もせずに家の中で過ごしたかった。けれどロイエンタールは、今日は朝の6:30から起き出して、シャワーを浴び、服もバッチリきめて、9:00には家を出て行った。その足取りは軽い。軽快とさえ言える。それは勿論、ミッターマイヤーとの約束があるからだった。彼がこんな風に出かけて行くのは、蜂蜜色の髪をした親友が相手の時だけである。
待ち合わせ時間は10;00だというのに、ロイエンタールは9:30には待ち合わせ場所へと到着していた。そこは街の広場にある噴水の前だった。まだ店屋の開店時間前ということもあって、人影は疎らだ。ロイエンタールは噴水の端に腰掛け、ミッターマイヤーを待った。今日は、一応デートであった。とは言ってもミッターマイヤーに買い物に付き合って欲しいと言われて、ただそれだけの事なのだが。それでもロイエンタールはやっぱり嬉しかった。彼はあの親友の傍に居られるだけで幸せなのだ。(たとえ今日の買い物とやらが奥方への贈り物選びだとしても)。まぁ、勿論、ロイエンタールがそんな想いを表に出したりする事などはありえないが。
「ロイエンタール!」
待ち合わせ時間の5分前に、ミッターマイヤーは現れた。手を振りながら小走りに駆け寄って来る。淡い黄色のトレーナーにジーンズという出で立ちで、とても帝国最高の軍人の一人には見えない。どう見ても、23,4の普通 の青年のようであった。本当に自分と一歳違いなのかとロイエンタールは苦笑して、そしてやっぱり自分たちは違う種類の人間なのだと思い知る。こんな時、ロイエンタールはいつもどうしようもなく寂しくなった。
「悪い、待たせたか?すまなかったな」
息を切らせながらミッターマイヤーが問いかけてきた。ロイエンタールは噴水から立ち上がり、上着に付いた埃を払った。
「いいや。まだ10時前だろう。何を謝る」
「あぁ、そういえばそうだな」
ははは、とミッターマイヤーは軽やかな笑い声を上げた。ロイエンタールはそれを眩しい思いで眺めやった。ミッターマイヤーの明るい笑顔を目にする度に、ロイエンタールはいつも太陽を翳し見るような思いがした。眩しくて仕方がなかった。ミッターマイヤーの表情、仕草、その一つ一つ全ては、いつだってロイエンタールを魅了してやまない。だから傍に居たかった。自分でも、まるで年端もいかぬ 子供のような事を考えていると判っている。けれど自嘲はしても冷笑する気にはならない。自分には珍しい事だと思う。
「さて、今日は何を買いに行くのだ?」
ロイエンタールが言うと、ミッターマイヤーははにかむようにちょっと視線を横へ向けて
「エヴァがさ、春物のコートが欲しいって言うから…」
そう答えて照れたように頭を掻いた。本当にいつまで経っても新婚気分だな、とロイエンタールは内心呆れた。無論、その毒気には嫉妬心が十二分に含まれている。
「それなら夫人と二人で買いに来れば良かろうに。何故俺が付き合わねばならんのだ」
いつもの事ながらもミッターマイヤーの惚気ぶりに少々不愉快になって、ロイエンタールは棘を含んだ声で言った。
「俺はエヴァにプレゼントしたいんだよ。だからエヴァと二人で来るわけにはいかなんだ。こっそり買っておいてビックリさせたいんだから」
「それなら何故俺が…」
「だって俺より卿の方がセンス良いじゃないか。俺は今の流行とかにはそんなに詳しくないしなぁ」
そう言ってまた笑った。キラキラとしたミッターマイヤーの表情に、ロイエンタールは何も言えなくなった。くるくると変わる表情が、本当に可愛らしくて、ロイエンタールは苦笑する。そしてこれが惚れた弱みというやつか、などと馬鹿な事を考えてみた。
「さぁ、行くぞ」
ミッターマイヤーはそう言ってロイエンタールの手を掴み、歩き出した。自分の目線の高さより大分低いところにある蜂蜜色の髪がふわふわと揺れて、ロイエンタールは思わず抱きしめたくなったが、無論自制した。ふと、そういえば今の状況は、何だか今朝見た夢と少し似ていると思った。夢の中では自分はミッターマイヤーの手を掴めずに一人取り残されてしまったけれど、現実は違う。こんなにも温かい手が、自分を引っ張ってくれている。ロイエンタールは繋いだ手に少し力を込めて、また小さく苦笑した。

「なぁ、どっちがいいかなぁ」
ミッターマイヤーが両手に一着ずつ女物のコートを持って唸っている。そこはロイエンタールが案内して連れてきてやったブティックであった。ミッターマイヤーが「良い店を知らないか?」と訊いてくるから、前にロイエンタールが付き合っていた女がよく利用していた店を教えてやったのだ。その店でロイエンタールと店員の助けを借りて、二つほど気に入ったコートを見つけたのだが、どちらにするか決められなくて、ミッターマイヤーはもう40分以上も迷い続けていた。疾風ウォルフとも思えぬ 鈍さだ。延々と「こっちがいいかな」、「でもやはりこっちか」と悩み続けている。艦隊指揮の時に見せる判断の素早さは一体どうした、とロイエンタールは苛立ち紛れに大きな溜息を吐いた。
「なぁ、ロイエンタール、どう思う?この青い方も綺麗な色だけど、こっちの緑も可愛いよなぁ」
ミッターマイヤーの方を見もせずにロイエンタールは半ば投げやりに返答する。
「それなら両方買えば良いでないか」
「ああ、そうか!それもそうだな!」
ミッターマイヤーはぱあっと顔を輝かせると、二つのコートを持ってレジへと向かった。まさか本当に二つ買っていくとは思っていなかったロイエンタールは、親友の小さな背中を見送りながら呆れたように肩を竦めた。

その30分後。ロイエンタールはまたも呆れ顔をしていた。二人はブティックを出た後、昼食をとる為にレストランに入ったのだが―――
「ミッターマイヤー…まだ食べるのか?」
「ああ、まだまだ食べるぞ」
にっこりと笑って、ミッターマイヤーはぱくりとハンバーグを口に放り込んだ。ミッターマイヤーが、とにかく食べるのだ。まぁいつもの事だと判ってはいるけれど、ロイエンタールは目を瞠らずにいられない。ミッターマイヤーの前には、もう綺麗に料理を片付けられた皿が6枚も重ねてあった。その小さな身体のどこにそんなに入るのだ、と聞きたいくらいだ。そして食べるスピードも速い。ロイエンタールが一皿片付ける間に2,3皿くらいは片付ける。こんなに食うくせにどうして太らないのか、とロイエンタールは不思議だった。いつも太る太ると気にしているくせに、ミッターマイヤーの身体には贅肉の一欠片もない。けれど何だかからかってやりたくなって、ロイエンタールは言ってやった。
「そんなに食べて、太っても知らんぞ」
ミッターマイヤーが、今度はピザを飲み込んで答える。
「いいじゃないか。美味い物は沢山食べなきゃ損だろう?」
そう言って、またあの眩しい笑顔を見せた。ロイエンタールは思う。どうしてこんな風に笑えるのだろう、と。裏のない言葉と笑顔。自分が絶対に持ち得ないものだ。こんな風に振舞える人間は、やはり幸せなのだろうか、と考え、けれどすぐに頭を振った。他人と幸せを比べる事ほど下らない事はない。

レストランを出た後、二人は街の東方の丘陵の上にある森林公園へと出向いた。無論、ミッターマイヤーの希望である。まだ午後も始まったばかりだ、と言うミッターマイヤーに引っ張られる形で、渋りながらもロイエンタールは付いて行った。そこは、休日ということもあって、子供連れの家族などがやたらと目に付くような場所だったが、けれどやはり緑のある所は気持ちがいい。晴れ渡った空が清々しかった。ロイエンタールは軽く息を吸って、春の初めの空気を味わった。ふと前方を見れば、やんわりとした陽光の中、ミッターマイヤーが大きく伸びをしていた。両腕を天へと突き出して、背を撓らせる様子は、どこか猫に似ていると思った。キラキラと光を弾く蜂蜜色の髪が、益々彼をそのように見せていた。
(本当に似ているな)
そう、ミッターマイヤーは猫のようだ。だから、こうして手を伸ばして捕まえようとしても―――…。
「ああ、喉が渇いたな。ちょっと待ってろ、ロイエンタール。そこの自販機でコーヒーでも買ってくる」
すい、といつも逃げられてしまう。
駆け出したミッターマイヤーの背中を見送って、ロイエンタールは小さく唇を歪めた。感傷的になり過ぎている自分が可笑しかった。けれど自分はいつもそうだと思った。ミッターマイヤーの傍に居る時、確かに幸せを感じるのだけれど、それなのにそれと同量 の寂寥感も、必ず胸の中に湧き出してくるのだ。こんなにも愛しいのに、寂しくてならない。愛しいから、寂しいのだろうか。
「何を考えている?ロイエンタール」
戻ってきたミッターマイヤーが缶コーヒーを差し出しながら、ロイエンタールの瞳を覗き込んで来た。真っ直ぐに向けられた、硝子玉 のようにどこまでも透明な灰色の双眸。日の光を受けて、まるで宝石のように輝いている。何もかも見透かされてしまいそうだと思った。けれどやはり心の底までは判らないだろうとも思う。
「勿論卿のことを考えていたに決まっているだろう?」
そう冗談口を叩けば、「また口が上手い」とミッターマイヤーは笑い声を弾けさせた。照れているのだろう。耳朶が淡く朱に染まっていた。
何となくいい雰囲気になって、キスの一つでもしようとした、その時。
「閣下ぁ〜!ミッターマイヤー元帥〜!」
どこからともなく、若い男の声が聞こえてきた。聞き覚えのある、ロイエンタールにとって忌々しいその声の持ち主は―――
「何だ、バイエルラインじゃないか!」
嬉しげに振り向いて、ミッターマイヤーは駆け寄ってくる部下に笑いかけた。突然の部外者の登場に、ロイエンタールは憮然とした面 持ちだ。
(青二才めが、何の用だ)
そう心中で吐き捨てる。
「どうしてこんな所にいるのだ?卿は一人か?」
「はい。今日は天気が良いので散歩がてら緑の中を歩くのもいいかな、と思いまして」
ミッターマイヤーが問いかければバイエルラインが嬉しそうに答える。この青年は、ミッターマイヤーに深く心酔している。そう、まるで恋心でも抱いているかのような瞳で、いつもミッターマイヤーを見つめていた。そういった事にどちらかといえば鈍感なミッターマイヤーはバイエルラインの気持ちになどまったく気付いていないらしいが、そういった事に敏感な――ミッターマイヤーに近付く人間全てに常に目を光らせているロイエンタールは知っていた。だから前々から彼が気に入らなかった。
「フン。若い男が休日に一人で森林公園か。随分と健康的だな」
嫌味と鋭い眼光をバイエルラインに浴びせ、ロイエンタールは思い切り小馬鹿にするような態度で腕を組んだ。
「あ、いや…はい、その…」
バイエルラインはどう答えていいのか判らないように口ごもり、俯いた。彼はロイエンタールを苦手に思っているようだ。会う度に睨みつけるか嫌味を言うか無視をするかしているのだから、当然のことだ。ロイエンタールはそっぽを向いた。自分でも子供っぽい事をしていると自覚している。しかし態度を改める気など更々無かった。自分でも滑稽だと思う。けれどそれでも良かった。とにかく自分以外の人間がミッターマイヤーに近付くのは気に食わないのだ。
「あの、小官は急用を思い出しましたので、この辺で…っ」
そう言って、バイエルラインは踵を返して走り出した。よほどロイエンタールが怖かったらしい。その声は震えていた。
「あ、ちょっと、待て、バイエルライン!」
驚いたようにミッターマイヤーが声をかけるが、バイエルラインは脇目も振らず全速力で走り去ってしまった。
「卿が変な事を言うからだぞ」
ミッターマイヤーが唇を尖らせてロイエンタールを睨みつけてきた。ロイエンタールはまた鼻で笑って答えた。
「だからどうした」
その言葉にミッターマイヤーは益々不機嫌そうに眉を寄せて、ロイエンタールに抗議する。
「どうして卿はそうなのだ!もっと温かい言葉とか当たり障りのない態度とか、そういうものがあるだろう。少しは相手の気持ちになって考えてみろ!」
「フン。知るか」
ロイエンタールは横を向いて黙り込んだ。そんなに怒るな、俺以外の人間の為に怒ったりなどするな、とそう言いたかった。けれど流石にそれを言うわけにはいかない。きっと困らせてしまうだろう。
「もう知らぬ」
ロイエンタールの沈黙を挑戦と受け取ったらしいミッターマイヤーはそう言い捨てると一人で歩き出してしまった。ロイエンタールは内心慌て、けれどどうしてか足が動かなかった。早く追いかけなければならないのに。
ミッターマイヤーは一人でずんずん進んで行ってしまう。ロイエンタールを置いて。まるで今朝見た悪夢そのままに。
なのに足を踏み出せない。何故だろう。理由などない。ただひどい恐怖感が胸を苛んでいた。こんな些細な喧嘩で自分達の関係が変わるとは、無論思ってなどいない。それなのに怖いと思った。漠然と、そう思った。ロイエンタールは全身の力を振り絞って、呼びかけた。
「ミッターマイヤー」
「何だ?反省したか?」
ミッターマイヤーが振り向かずに訊いてくる。こっちを見て欲しかった。だから。

「愛してる」

ロイエンタールのその言葉に、ミッターマイヤーが振り向いた。驚いたように大きく目を瞠っている。その表情からは不機嫌の影など消し飛んでいた。そうしてあの眩しい笑顔で駆け寄ってくる。
ロイエンタールは笑った。嬉しくて堪らなかった。もう何もいらないと思った。
「本当に卿は口が上手いなぁ」
「そんな事はないさ」
言いながら口付けを交わし、二人で笑い合う。幸せだった。本当に幸せだと思った。
――――けれど。
だから、やっぱり寂しかった。
だから、力の限りに抱きしめた。
絶対に、逃がしたくなくて。
自分には、彼だけだから。
「苦しいぞ、ロイエンタール」
苦笑めいた表情で、ミッターマイヤーが言った。そうしてするりとロイエンタールの腕の中から抜け出してしまう。空になった自分の両腕にロイエンタールはふっと悲しくなって、しかしそんな思いに意識が沈み込むよりも早く、心地の良い声が耳に届いた。
「さぁ、行こう。ロイエンタール」
顔を上げれば、ミッターマイヤーが笑顔で手を差し伸べている。小さくて、温かい、その手を。
ロイエンタールは泣きたくなるくらいに嬉しかった。無論、それを表情に出したりはしなかったけれど。
「さぁ、ロイエンタール」
ミッターマイヤーがなおも呼びかけてくる。ロイエンタールは差し出されたその手を掴んで、答えた。
「ああ」
ミッターマイヤーが満足げに頷いて、歩き出す。ロイエンタールの手を引いて。前へと。



二人ならどこまででも行けると、ミッターマイヤーは笑った。
ロイエンタールも頷いた。
けれどロイエンタールは、そう思ってはいなかった。

願って叶うなら、信じてその通りになるのなら――――。
そう思うけれど。やはり駄目なんだろう。
ロイエンタールは高く遠い空を仰いだ。その空のあまりの青に、目が眩みそうだと思った。
ミッターマイヤーも空を見上げた。そして、「綺麗だなぁ」と、また笑った。
そうだな、とロイエンタールは頷いた。





なぁ、ミッターマイヤー。
いつまでも、憶えていてくれないか。
この空の青を。
たとえば俺が、死んでも。

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