夢の中を、キルヒアイスは歩いていた。そこは、一面の野原だった。瑞々しい若草の萌える、果ての無い清々しい原っぱ。そこを、キルヒアイスは歩いていた。踏みしめる大地の温みも、頬に染み入るような陽光の温かさも、全てリアルに感じられるけれど、彼はそこが夢の中だと知っていた。柔らかな微風の吹く中を、真っ直ぐに前を目指して進んでゆく。彼は、行かなければならなかった。否、行きたいと思っていた。あの人が、待っているから。
前方に、人影がある。その人は、眩しい陽の光を背にしているから、おぼろげにしか姿が見えない。しかしその人が待っているのだと、キルヒアイスには判っていた。
不意に、突風が沸き起こる。何もかも吹き飛ばしてしまいそうな程の強風が、キルヒアイスの身体に吹き付けた。飛ばされないように、と身を沈めて蹲る。轟々と鳴る風の音が耳に押し寄せる。頬に触れる草の香りが、ふわりと鼻腔を掠め、一瞬それに意識を取られると、突然風が止んだ。よろよろと立ち上がり、また彼は歩き始めた。自分は、行かなければならないのだから。この人を連れて。キルヒアイスの左手は、誰かの手を握り締めていた。先程までは、誰かと手を繋いでなどいなかった。一人で歩いていた筈だった。けれど今は確かに、誰かと手を握り合っている。いや、この手はもうずっと前から繋いでいたものだ。そう、ずっと昔から。
繋いだ手は、酷く熱かった。その体温の高さから、その手の持ち主の心が昂ぶっているのが判る。微かに、洟を啜るような気配も感じられた。泣いているのだと思った。けれどキルヒアイスは振り向かなかった。泣き顔を見られるのを何より嫌う人だと判っているから。
行かなければ。早く。あの人の元へ。



宇宙を彼の手に。それは確かに自分の願いだった。ラインハルトがそう望むから、だからキルヒアイスもそう願った。出来得る限りの手助けをしたいと思った。眩い金髪の天使の望みを、叶えてやりたかった。けれど、自分が軍人に向いているなどと思った事など一度だって無かった。血を見るのが苦手とか、そういう事ではない。純粋な、死への恐怖に押し潰されそうになっていたというわけでもない。けれど自分は確かに怖かったのだ。
彼も――――ラインハルトも、その事を察していた。だから彼はいつも少し離れて微笑んで、そうして血腥い仕事からキルヒアイスを遠ざけようとしてくれていた。それに少しの安堵を覚え、しかしキルヒアイスは悔しくて悲しかった。だって、ラインハルトは自身の真白な手を、血に染めてばかりいたから。あの美しい姉と、キルヒアイスを守る為に。

あなたの役に、立ちたかったんです。



憧れていた。美しいあの人に。少年の日に出逢ったあの時から、ずっと、キルヒアイスはアンネローゼだけを想い続けてきた。けぶるような眼差しが好きだった。柔らかな木漏れ日のような微笑が眩しかった。ほんの一時、傍に居られるだけで幸せだった。ラインハルトも、自分のそんな彼女への思慕に気付いていたように思う。そしてキルヒアイスのその想いの手助けをしようとしてくれていた。彼は、事あるごとに自分とアンネローゼを二人きりにしてくれた。三人での談話の時などにも、いつのまにかふわりと姿を消してしまう事が、よくあった。それから夕食の時などに、「キルヒアイスはいつも言っています。姉上の料理ほど美味な物はこの世には無いと。な、キルヒアイス?」と、そんな風にからかい混じりにキルヒアイスの想いをアンネローゼに伝えようとしたり、らしくもなく彼は親友の恋を成就させてやろうと気を使ってばかりいた。けれど、キルヒアイスとアンネローゼが二人で笑っている時、彼はまた少し離れて見守るように、寂しげに微笑んでいた。自分は確かにそれに気付いていた。だから、そんな彼を見ていられなくて、「ラインハルト様」と呼びかけた。けれど彼はいつも来なかった。困ったように首を振って、悲しそうに微笑んだ。そんな時、キルヒアイスは強く思った。自己満足に過ぎぬ考えだと自覚してはいたけれど。ラインハルト様を愛し、そしてラインハルト様も愛し返せるような女性が、いつか現れてくれれば、と。

寂しそうな笑顔は、見たくなかったんです。



「キルヒアイス!キルヒアイス!」
ラインハルトが、泣いている。自分の身体から血という名の命そのものが流れ出していくのを、キルヒアイスは苦痛の中で、受け止めた。首と、胸から、尚も真っ赤な血が流れ続ける。
しかし不意に、身体の苦痛が遠ざかった。傷の痛みなどよりも、心の方が、まるで切り刻まれるように強く痛んだ。もう、自分は、彼と、そしてアンネローゼの傍には居られない。死への恐怖は確かにある。けれど、それ以上にキルヒアイスは悔しくてならなかった。こんなところで、終わるなんて。彼らを置いていかなければならないなんて。まだ、やらなければならない事があるのに。伝えなくてはならない事があるのに。ラインハルトが、自分の左手を固く握り締めてくれている。身体も、頬に感じる自分自身の流した血も酷く冷たいのに、左手だけが、まるで陽光に抱かれているように温かかった。



キルヒアイスは歩いていた。温かな手を、強く握り締めたまま。前へ前へと歩いていた。自分と手を繋いでいる彼は、まだ泣いている。視界の端にゴシゴシと目を擦っている様子が見えた。振り向くときっと怒り出すだろうから、やっぱり彼の手を引いたまま、前だけを見てキルヒアイスは進んで行った。何もかも温かいと思った。若草揺れる地面も、陽光に満たされた空気も、繋いだ手も。何もかも。眩しい光の中に、あの人が、彼女が立っている。微笑んで、手招きしている。キルヒアイスは走り出した。後ろに居たラインハルトも、つられて足を速める。二人は手を繋いだまま並んで走り出した。心地良い風が、頬を、髪を、優しく撫ぜて、その中にひどく懐かしい匂いを感じた。何故だか今度はキルヒアイスの方が泣きたくなった。ぽろぽろと、涙が零れ落ちた。それを見て、ラインハルトが笑う。
「どうして泣くんだ。ほら、キルヒアイス、もうすぐ姉上のところに着くぞ。泣き顔なんかでご挨拶するのか?」
その言葉に、キルヒアイスは笑顔で返した。
「あなたも泣いているじゃないですか、ラインハルト様」
朗らかに、ラインハルトは答える。
「ははは。そうだな。それじゃあ二人して姉上に泣き顔をお見せして、慰めて貰おう。きっといつもより沢山ケーキを食べさせて貰えるぞ」
二人は同時に笑い声を上げた。そうして固く手を繋いだまま、アンネローゼの待つ光の中へと走っていく。
風が、吹く。柔らかく温かい風が、心を攫ってゆく。
眩い光を目指し、走りながらキルヒアイスは涙を流し続けていた。嬉しかったからだ。二人がいるから。隣にはラインハルトが居て、すぐそこにアンネローゼが待っている。彼らと出逢えた、それだけで自分は確かに幸せだったのだと、キルヒアイスは心から思い、目を閉じた。


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送