ある日

「陛下、陛下、朝でございます」
少し高めの、少年特有の甘い声が、鼓膜を叩いた。その呼びかけによって夢の世界から意識が浮上する。ゆっくりと瞼を持ち上げれば、窓から差し込んできた眩しい朝日に視界が真っ白になった。
ああ、朝か。折角いい夢を見ていたのに。残念。久しぶりにキルヒアイスに会えたのに。
キルヒアイスの夢を見るのは、二ヶ月ぶりだった。
アイツ、何であまり夢に出てきてくれないんだろう。
起きている間中、俺はお前の事ばかり考えているのに。相変わらず意地が悪いよな、お前。
俺は大きな欠伸を漏らし、伸びをして起き上がる。するとそこにはエミールが着替えを持って待ち構えていた。
「お早うございます、陛下。今日のご気分はいかがでしょうか?もし優れませんようなら侍医の先生をお呼び致しますが」
気遣うような、心配げな瞳。何だかからかってやりたくなって、俺はエミールの手を取って引き寄せ、頬に軽くキスしてやった。
「へ、陛下!?」
「エミール、予はそんなに毎日毎日病人のような顔をして起きるのか?」
悪戯っぽく微笑んで、エミールの暗緑色の両眼を覗き込む。エミールは毎朝俺を起こしに来る度に、俺の体調を気遣ってくれるのだ。ホントにいい子だよ、お前。
「そ、そんな事はございません!毎朝陛下はとてもお美しゅうございます!」
真っ赤な顔をして、そう答える。俺の冗談を真に受けて、ぶんぶんと頭を振って必死に否定する様子がとても可愛い。お前は、まだ子供なんだよな。だからそんな風に素直なんだ。
「今日は朝食はいかが致しましょう?」
俺の着替えを手伝いながら、エミールが訊いてくる。ひどく丁寧な手つきで俺のマントを掲げる様子に、抑えきれない憧憬と好意が溢れている。見上げてくる瞳も、何だか言いようのない、眩し過ぎるくらいの光にキラキラとしていて。
俺はいつも少し困ってしまう。
俺は、他人に好意を向けてもらう事に慣れていないから。ましてや、こんなに歳の離れた人間と接する機会なんて、今まで無かったから。時々どうしたらいいのか判らなくなるんだ。
「今日の朝食は何なのだ?」
勤めて優しげな口調を作り問い返してやる。
「先日、陛下が朝は軽めの物を、と仰いましたので、サンドイッチとコーヒーをお持ちしました」
俺は即座に答えた。
「…すまないが、今日はいい」
悪いな、エミール。サンドイッチはこの間ビッテンフェルトと食べたばかりなのだ。だから、食べたくない。だから、いらない。俺は皇帝なのだから。食べたくない物など口にはしないのだ。
けれども俺は、どうしようもない罪悪感が胸に広がっていくのを抑えられなかった。だって、エミールが可愛い顔を曇らせて、悲しげに俺を見つめているから。
「…嘘だ。ちゃんと食べる」
俺が言うと、途端にエミールはぱあっと顔を輝かせた。まったく、お前には敵わないよ。


食べたくもない朝食を無理矢理胃袋に押し込んで、俺は執務室へと向かった。キスリング、リュッケなどが付き従う。こんなに大人数はいらないよな、と思いつつも、自分の身分を思いやり、俺は大きく溜息を吐いた。
皇帝になんかなるもんじゃないな…。自分が望んでの事だけれども。
「陛下、何やらお顔の色が優れませんが、ご体調が悪いのですか?」
リュッケが気遣うように訊いてくる。まったく、誰も彼も、俺をまるで壊れ物のように扱う。気に入らない。心配してくれているのだとは、判っているけれど。
「そんな事は無い」
振り向かずに答える。
「ですが…」
リュッケ、俺は朝から食べたくもないサンドイッチを食べたせいで少し気分が悪いだけなのだ。気にするな。
…ああ、やはり気持ちが悪い。もう暫くはサンドイッチは食べたくないな。ビッテンフェルトに今度そう言っておかなければ。(アイツはデートの度にサンドイッチを持ってくるのだ。さすがにもう飽きたぞ)。
「心配しなくていい。卿は本当に心配性だな、リュッケ」
出来るだけ明るい声を出して言った。それでもリュッケはまだ納得いかない様子の視線を俺に送ってくる。仕方が無いので振り向いて笑顔を向けてやると、漸く安心したように頷いた。

やっぱり、人の優しさは苦手だと思う。だって、どうやって返したらいいのか判らない。


午前の執務時間の終わり直前、11時45分、ミッターマイヤーが幾つかの書類を携えて俺の執務室へ来た。報告やその他の話が終わると、話題は先日のグエン・キム・ホア広場事件の事になった。
「何故あのような暴動が起こったのか…。ロイエンタールも今頃事件の諸事に追われているだろうな」
「けれど彼の事です。必ず上手く収拾してみせるでしょう」
ミッターマイヤーの口調には、一欠片の疑念も伺えない。自信に満ち溢れている。それほどまでに、あの金銀妖瞳の親友を信頼しているのだろう。
「…そうだな」
俺は小さく答える。声が掠れた事には気付いたが、どうしようもなかった。胸に温もりと苦味が同時に広がっていくのが判る。俺は、ロイエンタールとミッターマイヤーの絆を思い知る度に、こうして言葉にし難い気分に襲われる。それは、二人の友情に純粋な好感を覚えながらも、しかしその一方では嫉妬が芽生えてしまうからだ。
この二人は、お互いを本当に愛しんでいるのだ。相手の事を、まるで自分の事のように思える程に。
俺にも、キルヒアイスが居たのに。だけど俺のせいで死んでしまった。俺が殺してしまった。
そんな風に考えて、俺は溜息を吐く。

毎日毎日こうやって、ほんの些細な事で、俺はいちいちお前の事を思い出しているんだよ。
どうして来てくれないんだよ。馬鹿野郎。

「卿は、本当にロイエンタールの事を信じているのだな」
「ええ。親友ですから」
恥ずかしげもなく、ミッターマイヤーは真っ直ぐな瞳をして答えた。俺はそれを受け止める事が出来なくて、慌てて目を逸らした。

綺麗事なんて、俺は嫌いだ。大嫌いだ。
もう、思い出したくないんだよ。悲しい思いを、したくはないんだよ。

そんな風に考える資格、俺には有りはしないって事ぐらい、よく判ってるけれど。



午後になった。する事が無い。政務は一通り片付けてしまったし、他にやらなければならない事も思い付かない。昼食は「食欲が無い」と断ってしまったし。本当に、この時間をどうしようか。読みかけたままにしてあった本を引き出しから取り出してみるも、しかし数行読んだだけで、文字を追うのが億劫になった。仕方が無いので本をしまい、三次元チェスでも、と思い相手を誰にしようかと考えてみたが、しかしそれも面倒になった。やめた。何もやりたくない。
ああ、本当にやる事が無い。よく考えたら今日はこれで政務は終わりなのだ。他に予定もありはしない。最近、提督達と様々な所へ出掛けていたが、今日はそんな約束も無い。少し控えた方がいいと思って、やめておいたのだ。皆、俺が誘うと迷惑そうな顔をするから。…何故だ。
退屈を紛らわせる為に、俺は、音楽、絵画、バレエなど様々なものに触れてみた。しかしどうもいまいちどれにも興味をそそられない。俺には情緒というものが足りないのだろうか。一昨日はルッツを伴って詩の朗読会に出席したが、面白くも何とも無かった。自作の詩や、ゲーテやハイネなどの詩を、皆で読み交わす、そんな会合だったのだが。つまらなかった。ルッツも多分そうだったんだろう。取りあえずは穏やかな表情をしているように見えたが、やはりどこか困ったような顔だった(気がする)。悪かったな…。
俺は苛々とコーヒーを啜り、溜息を吐いた。今日何回目の溜息だろう。数えるのも虚しい。どうして俺は皇帝なのに、こんなに苛々鬱々としているんだろう。
理由は明白だ。フロイライン・マリーンドルフから返事が来ないからだ。皇帝から求婚なぞされたら誰だってそう簡単に答えられるわけがない、と頭では判っているが、しかし不安やら、期待やら、羞恥やら、とにかく様々な感情が心に渦巻いて仕方が無い。
ああ、フロイライン!頼むから早く返事をくれ!
俺はもう一口コーヒーを啜った。そんな事で気分が落ち着いてくれる筈も無いと判ってはいたが。
…こんな事で悩んでいるとロイエンタールのやつに話したりしたら、きっと、あの、人を小馬鹿にしたような冷笑を向けられるだろうな。クソ。アイツは俺の事を愛していると言いながらも、妙に冷静に人を批評するから。そういうところはちょっと嫌な男だ。チクショウ。



夕方、暇を持て余し過ぎた俺は、エミールを伴って庭へ散歩に出た。9月の夕刻と言えどまだまだ暑い。肌がじっとりと汗ばむ。しかし室内で一人憂鬱になっているよりはいいだろう。
濃い緑の庭園を、ゆっくりと進んで行った。後ろから三歩下がって付いて来るエミールの、温かくて強い視線を感じながら。
馬鹿だな、エミール。俺なんかより、お前の方がずっと立派な人間なのに。
そんな風に憧れられたら、俺は本当に困ってしまうんだ。…本当に。
庭の奥深くに温室を見つけた。足を踏み入れてみれば、中には色とりどりの蘭がぎっしりと置かれていた。
蘭の花。確かキルヒアイスの父親が育てていたような気がする。俺は花の一つに手を伸ばし、その瑞々しい花弁に触れてみた。
お前がよくうちにもって来てくれたな。それがどんな色だったか、もう思い出せないけれど。
人の記憶というのは、どうしてこうも適当で残酷なのだろう。
ふと顔を上げれば、温室の硝子越しに真っ赤に燃える夕陽が見えた。本当に、真っ赤な。目に痛いくらいの。
思わず胸に掛かったペンダントに手を伸ばしてしまう。この中に入っているキルヒアイスの髪と、まったく同じ色が、世界を染め上げている。

俺も、同じだよ。お前に心を染められたまま、ずっとそのまま待ってるんだ。

「陛下…」
エミールが心配そうに俺を覗き込んで来る。その手には、真っ白なハンカチ。それを俺の手に握らせると、エミールは温室を出て行った。一人残された俺は、やっぱり皆俺を置いて行くんだ、と、またどうしようもない事を考えて、涙も拭わずに、笑ってしまった。




今日も夢でお前に逢えますように。
願って俺は、目を閉じた。



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