外は、嵐であった。
午後から降り始めた雨は次第にその量を増し、時が経つにつれて荒々しくなってゆく風は、まるで全てを薙ぎ払うが如き烈風へと変化して、その日の夕には帝都は暴風雨の真っ只中にあった。そんな悪天候の中、ロイエンタールは大本営のラインハルトを訪ねた。どうしても皇帝の裁可を仰がなければならない仕事があったからだ。ついでに、明日から彼は辺境惑星の視察に出掛ける事になっている為、取りあえずラインハルトへ出立の挨拶をしなければならない。この二つの用事の為に、ロイエンタールはもう7時になろうとしている夕刻に、金髪の主君を訪った。大本営の地下駐車場に地上車を停め、淀みの無い足取りで、階上へと向かう。もう執務時間外という事もあって、大本営の中は寂然としていて人影も疎らだった。ラインハルトは、もう執務室には居ないだろう。そう予測し、ロイエンタールは皇帝の私室へと足を伸ばした。
ラインハルトの部屋の前には先客が居た。否、先客とは言えない。それは皇帝の小姓、エミール少年であった。彼は不安げな表情を滲ませて、ドアの前に一人佇んでいた。何やら只ならぬ様子である。
「どうした?こんな所で何をしている?」
ロイエンタールが声を掛けてやると、エミールは泣きそうな顔をして、振り向いた。そのような暗緑色の眼差しを向けられて、ロイエンタールは内心たじろいだ。一体どうしたというのだろう。
「ロイエンタール閣下…陛下に、御用でございますか…?」
エミールが弱弱しく問いかけてくる。ロイエンタールはその、色の違う両眼に訝しげな光を湛えて頷いた。
「ああ、そうだ。陛下はご在室か?」
「…はい……」
「ならば、取り次いで貰えぬか?」
「…ですが今は…」
どうも、歯切れが悪い。普段のエミールならばこのような物言いをする事など絶対にありえない。この利発な少年は今、一体何にこれほど困り果てていると言うのだろう。ロイエンタールが事情を訊こうとしたその時、ラインハルトの部屋から大きな物音が聞こえた。何か陶器類を投げ割るような音がドアを越えて辺りに響き渡る。ロイエンタールは溜息を吐いた。何故エミールがこんな顔をして部屋の前をうろついていたのか、察しが付いたからだ。
「また、癇癪を起こされているのか?」
「……はい」
エミールは小さく頷き、項垂れた。そんな彼に、もう下がってよい、と告げるとロイエンタールは皇帝の室のドアを叩いた。返事は、無い。それでも彼は部屋の中へと入って行った。


ラインハルトの癇癪――――ヒステリーは、いつもの事だった。時折起こる。理由も無く突然不機嫌になり(もしかしたら本人にはきちんとした理由があるのかもしれないが)、辺りの物に当り散らす。そんな時には誰が宥めても聞こうとはせず、落ち着くまで待つしかない。ロイエンタールは今までに何度もラインハルトのそのような状態を目にした事がある。そんな時の彼は、とにかくまともに話をする事すら出来ない。手当たり次第、物を投げて暴れていたかと思えば、突然泣き出して「遠くへ行こう」と駄々をこね、かと思えばいきなり楽しげに笑い出し、「お前に帝位を譲ってやろうか?」などと物騒な言葉を漏らしたり、次の瞬間には「明日にでも同盟の残党を殲滅してやる」と息巻いたり、とにかく滅茶苦茶なのだ。しかしロイエンタールはラインハルトを見捨てられなかった。哀れなのではない。離れ難いと思うからだ。けれどそれは、自分の弱さ故なのだろうか。
部屋の中の有様は、とにかく酷いものだった。普段ならば優秀な小姓の手によって整えられている筈の部屋が、今はその面影すらない。様々な物が床に散らばり、机も椅子も倒され、カーテンも引き裂かれて、とにかく雑然としていた。まるで今のラインハルトの精神状態を具体化したようだ。
しかし、その荒れ果てた場にそぐわないものが一つあった。部屋の隅に置かれた蘭の花が、芳香を発しているのだある。
部屋を満たす、花の香。
思わず意識を取られかけるが、ロイエンタールは一つ頭を振って我に返ると、ラインハルトの姿を探した。明かりは点いていないが、カーテンも窓も開け放たれている為、部屋の中は存外に明るい。
ラインハルトは、いた。部屋の真奥の窓辺に膝を抱えて座り込んでいた。開けっ放しの窓から風雨が吹き込んでくるのにも構わず、ぴくりとも動かない。茫然自失といった面持ちだった。どこか遠い彼方に意識を飛ばしているように見える。
「陛下」
ロイエンタールが声を掛ける。すると彼はゆっくりと顔を持ち上げた。そしてその蒼氷色の瞳でロイエンタールの姿を認めると、子供のようににこりと笑い、立ち上がった。
「ロイエンタール、ロイエンタール」
何度も名を呼びながら、嬉しげに駆け寄ってくる。ロイエンタールはそんなラインハルトに何か危ういものを感じながらも、その華奢な身体を抱きとめてやった。雨風に晒されていた筈なのに、彼の身体は酷く熱い。また、熱を出しているのだろうか。
「陛下、熱がおありなのでは?」
「そんな事は無い。今日はとても体調が良い」
ロイエンタールの腕の中でふるふると首を振って、ラインハルトが答える。相変わらずその白い面には無邪気な笑みが浮かんでいる。けれどどこか無機的なものを感じる。
ロイエンタールは仕方なく、仕事の話を始めた。今夜はもう少し一緒に居てやりたい気もするが、けれど明日から出張だから、そうもいかない。さっさとラインハルトの指示を得て辞さねばならなかった。
「…という状況から見ますに、この拠点に一時的な簡易要塞を築く事が宜しいのではないかと…」
暫くは大人しく話を聞いていたラインハルトだったが、突然ロイエンタールの言葉を遮るように叫んだ。
「そんな話は聞きたくない!」
眉を吊り上げて、ロイエンタールをきつく睨めつける。けれど普段の苛烈さには遠く及ばない。ロイエンタールはそんなラインハルトに無感動に一瞥をくれると、「それでは下がりましょう」と踵を返しかけた。ラインハルトがまた叫ぶ。
「待て!嫌だ。行くな。一人にするな。俺を置いて行くな、ロイエンタール」
そう繰り返し、ロイエンタールの首に縋り付く。その肩が震えている。泣いているのだろうか。しかしロイエンタールは抱き返してやらなかった。
強風に吹き付けられた窓がガタガタと揺れ、雷鳴が轟いた。ラインハルトはびくりと身体を震わせて、さらに強くロイエンタールに抱き付いた。そうして、ぽつりと言葉を紡ぐ。
「な、どこか行こう?遠くに。二人で行こう」
消え入りそうな声で、繰り返した。ロイエンタールは、またか、と呆れとも諦めともつかない表情になった。「遠くに行こう」とはヒステリー状態に陥った時のラインハルトの口癖のようなものだ。行こう、行こう、と駄々をこねる。無理だと承知しているくせに、断ると益々怒り出す。いつも、そうだった。
「なぁ、いいだろう?何もかも、捨てて、行くんだ。もう、俺は、何もいらないから。王座も、皆も、何も」
夢見るような眼差し。玩具に飽きた子供のような物言いだとロイエンタールは思った。雷光を受けて、宝玉のような蒼い両眼がきらりと輝く。ロイエンタールは無理に微笑を拵えて、一つ、ラインハルトに口付けを落とした。もう何も見たくなかったのだ。
「陛下、私は明日から視察に行かねばなりませんので、そろそろお暇させて頂きたいのですが」
出来る限り穏やかな口調で言ったが、やはりラインハルトは怒り出した。
「何故!どうしてそんな事を言う!俺を置いて行くなというのに!」
自分が命じてロイエンタールを視察に行かせるくせに、それを忘れてラインハルトは怒鳴り、ロイエンタールを突き飛ばすと、手近にあった空の花瓶を引っ掴んで床へと叩き付けた。そうして次は自分のデスク周辺に散らばっていたペンやインクなどを掴むとロイエンタールへ投げ付けてきた。ロイエンタールはそれを軽く避けると、ラインハルトから少し距離をとった。ラインハルトは悔しげに唇を噛み締めると窓辺へと近付き、カーテンを引き裂き始める。美貌を歪ませて、周りの物に当り散らすラインハルトはいっそ哀れだった。一見、気が触れているように見える。しかし彼がまったくの正気だという事は、ロイエンタールにはよく判っていた。だからこそ、哀れなのだ。ラインハルトは何もかも判ってやっている。その証拠に、彼は部屋の隅に置かれた蘭の鉢にだけは、手を出していない。この花は、ラインハルトが所望してエミールに飾らせた物だ。理由は判らないが、花になど大して興味を抱いていないラインハルトが、何故かこの花にだけは特別の想いをかけている事をロイエンタールは知っていた。どんなに荒れ狂おうと、ラインハルトはこの花にだけは指一本触れない。未だ凛と咲き誇り、蘭の花は柔らかな香気を放ち続けていた。
自分でも、どうしようもないのだろう。何もかも判っていても、当り散らさずにいられないのだろう。ロイエンタールは金髪の麗人へと憐憫の眼差しを向けた。それに気付いたラインハルトが吼える様に叫ぶ。
「どうしてそんな目で俺を見る!そんなに俺が哀れか!同情などするな!」
言い放ち、床に散らばった花瓶、食器類の破片へと手を伸ばす。流石に止めねばとロイエンタールはラインハルトの両腕を掴み、その華奢な身体を壁へと縫い付けてしまった。
「危ないでしょう。そんな事をしたら指が傷つきますよ、マイン・カイザー」
「五月蝿い!離せ!離せ!馬鹿!」
もがくラインハルトに小さく冷笑を向けると、ロイエンタールは目の前の真白な首筋へと唇を落とした。ラインハルトがびくりと身体を強張らせる。
「やめろ!嫌だ!」
しかしロイエンタールは聞き入れない。更に幾度も口付けを繰り返し、ラインハルトの衣服へと手を掛けた。慌てたようにラインハルトが逃げようとするが、ロイエンタールは押さえつけ、嘲笑った。ラインハルトは本気で逃げようとはしていない。ほぼ同じ体格なのだから、本気で抵抗するつもりなら出来る筈だ。
「相変わらず、生娘のような真似をするのがお好きなのですね」
ロイエンタールのその言葉に、ラインハルトの頬がかっと紅潮する。悔しげに顔を背け、ラインハルトは黙り込んだ。引き結んだその唇から嬌声が漏れるのは時間の問題だ、とロイエンタールは可笑しくなった。


組み敷いた身体は、酷く熱い。炎を抱いているようだと思った。ロイエンタールの下で、ラインハルトは苦しげに息を喘がせている。それは勿論快楽の為だ。頬を染め、半開きの唇から甘い喘ぎを漏らして。しかしラインハルトは、一度もロイエンタールを見ようとはしない。その蒼氷色の瞳は、ずっと蘭の花へと向けられていた。それが苛立たしくて、ロイエンタールは乱暴にラインハルトの太股を抱え上げると、一気に身体を進めた。ラインハルトが喉を鳴らして、仰け反る。それでも瞳は花に釘付けになったままだ。ロイエンタールは更に深く身を沈め、抉り、掻き回し、貫いた。ラインハルトの頬に涙が伝い、喘ぎは一層大きくなった。ロイエンタールの顔に、苦しげな表情が滲んだ。彼はその甘い声を聴いていたくないのだ。だから、尚強く身体を打ち付けた。
ラインハルトが、固く目を瞑る。もう、彼は何も見ていない。今、彼の意識には何もないだろう。怒りも、哀しみも、寂しさも。あるのはきっと、全てが溶け出しそうな熱だけだ。それでいい。ロイエンタールは笑った。
ロイエンタールは思う。もしもラインハルトが本当に狂人になってしまったなら、自分が屋敷に引き取って囲うのもいい、と。そうしたら、もう誰にも会わせず、外にも出さず、永遠に自分だけのものにしてしまうのに。
不意に馬鹿らしくなって、ロイエンタールは苦笑した。そんな事はありえない。そんな夢想に酔っている自分こそがどうかしている。
ロイエンタールは自分の心臓を、ざわざわと百足が這い回っているような心地に襲われた。その、不安、焦燥にも似た感情。これはまさしく自分を死に至らしめるものだと思った。
強く、強く、ロイエンタールは声を上げて泣きたくなった。
自分はこの人を愛しているのだ、と――――――。


「この花は、何です?」
未だ夢心地のままベッドに身体を横たえているラインハルトに、ロイエンタールは問いかけた。ラインハルトはロイエンタールの指す蘭の花につと視線をやり、しかしすぐに目を逸らした。
「別に、何でもない」
「本当に?」
「ああ」
そう言いながらも、ラインハルトの手は胸のペンダントを弄んでいる。その銀のペンダントがキルヒアイスとの思い出の品か何かだという事くらい、ロイエンタールは前から気付いていた。
(この花も…か)
ロイエンタールは蘭へと手を伸ばす。この花もきっと、キルヒアイスとの思い出の一つなのだろう。知らず、冷笑が浮かぶ。彼はその花の一つをぐっと握り潰した。花の香りと植物特有のツンとした匂いが、鼻腔を突いた。自分の手に張り付いた薄桃色の花弁を、ロイエンタールは無表情に床へと捨てた。ラインハルトは、怒りもせずに何も言わなかった。表情一つ変えずに、床に落ちた花の残骸を見つめている。やはり、ペンダントを握り締めたままだ。ロイエンタールは自嘲気味に笑った。そして、ふと思い出す。蘭の花言葉は「あなたを愛します」だった、と。あの赤毛の男は、こんなところにまで自分の想いを残している。その想いを握り潰し、ラインハルトの心を手に入れる事など、自分には叶わぬ願いなのだろか。どちらでも良い。だがしかし、今貴方を愛しているのはこの俺なのだ、と彼は心から言いたかった。
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送