青空

キラキラとした初夏の日差しが、青い空の下、満ち溢れている。柔らかな微風が辺りに吹き渡り、瑞々しい若葉を付けた梢を揺らしている。そんな、ひどく心地の良いある日の正午、ビッテンフェルトは大本営の中庭に居た。元々がホテルというだけあって、その中庭は形の良い木々が整然と並び、しかし人工的過ぎる事もなく、適度に施された心遣いによってひどく居心地の良い空間を広げていた。
ビッテンフェルトは眩しげに空を見上げる。雲一つ無い快晴が、目に痛い程で、思わず笑みが零れる。彼は、この場所が好きだった。ここで昼食を摂るのが、大本営に居る時の彼の日課である。その手には今日の昼食のカツサンドとスポーツドリンクが抱えられている。国を担う高級軍人の昼食にしては、些か庶民的過ぎる食事であるが、しかしビッテンフェルトはそんな事は気にも留めない。ロイエンタールなどとは違い、王侯貴族のような華やかで洗練された生活など彼には似合いもしないし、そもそもそんなものには興味の欠片もなかった。幼い頃からの好物であるサンドイッチがあれば十分だ。いつものように中庭の中央に立つ大木の下に置かれているベンチで食べようと歩を進めていくと、彼は思いがけない人物と出逢った。
そのベンチには先客が居たのだ。そしてそれは彼が敬愛して止まぬ美貌の皇帝であった。
「へ、陛下!?」
「ああ、ビッテンフェルトか」
煌く初夏の陽光よりも、尚眩しい金髪を波打たせてラインハルトは振り向いた。けぶるような眼差しに、ビッテンフェルトの胸が高鳴る。もう知り合って何年にもなるのに、彼はラインハルトを目にする度に、いつもこうして初恋を知ったばかりの少年のような感情を覚える。それだけで、ビッテンフェルトは幸せになれた。
「そんな所に立っていないで、座ったらどうだ?席は空いているぞ」
ラインハルトが白い歯を覗かせて微笑い、手招いた。ビッテンフェルトは少々心許無いとでも言える足取りでベンチに近付き、彼に不似合いな程遠慮がちにベンチの隅に腰掛けた。
「どうしてこんな所にいらっしゃるのですか?」
ビッテンフェルトは緊張を隠しきれない強張った声で訊いた。このような所で一人で居るラインハルトに会う事になろうとは想像もしていなかった。いつも周りを取り囲んでいる筈の親衛隊の姿も見当たらない。
「今日はあまりに天気が良いのでな、外に出てみたくなったのだ。ああ、勿論キスリング達には言ってあるから問題は無い」
「そうですか」
「ここには初めて来たのだが、気持ちの良い所だな。卿は、よくここに来るのか?」
「はい。いつもここで昼食を摂っております」
「そうか」
ラインハルトは穏やかに頷き、空を仰いだ。その面には木漏れ日が差し、普段は苛烈な光彩に満ちている蒼氷色の瞳には、ひどく柔和な光が溶け込んでいた。ビッテンフェルトはそれを美しいと思った。しかしどうしてか、胸に不安のようなものが過ぎる。それが何故なのか、さっぱり判らなかったが。
「それが卿の昼食か?」
ビッテンフェルトの腕の中のサンドイッチに目を向け、ラインハルトが問いかける。
「はい」
ビッテンフェルトは言葉少なに答える。彼は、ラインハルトの前でだけは、いつもこうして上手く喋る事が出来ない。
「予も何か食べるものを持ってくれば良かった。ここで食べたら、きっとさぞ美味かろうに」
ラインハルトが残念そうに吐息を漏らし、笑った。その笑顔はやはりけぶるように柔らかくて、ビッテンフェルトはまた、理由の無い不安が胸中に霧のように立ち込めていくのを自覚した。それを振り払うように軽く頭を振って、笑顔を作る。
「では陛下、私と一緒にこれをお食べになりませんか?お口に合うか判らないのですが」
「良いのか?卿の昼食であろう?」
ラインハルトが遠慮したように訊き返す。その探るような可愛らしい上目遣いに、ビッテンフェルトは赤面し、思わず目を逸らした。
「も、勿論です、陛下っ。陛下と共に食事をする事が出来れば、臣の至上の幸福です」
ビッテンフェルトは些か大袈裟過ぎるとも言えるそんな言葉を口にして、ラインハルトにサンドイッチを突き出した。ラインハルトは苦笑めいた表情でそれを受け取り、礼を言った。
「有難う」
「い、いえっ」
それだけ言って、ビッテンフェルトは自分の分のカツサンドを口の中に押し込め始めた。とにかく緊張してしまっていて、何かして気分を落ち着けなければと、慌しくサンドイッチを飲み込む。それとは対照的にラインハルトはゆっくりと味わうようにしてぱくりぱくりと食を進める。その仕草はどこか子供めいているのだが、しかしある意味混乱状態とも言えるビッテンフェルトはそれに気付かなかった。あまりに慌て過ぎて、彼は喉にパンを詰まらせる。顔を真っ赤にしながらスポーツドリンクのキャップを開け、一気に流し込み、激しく咳き込みながら、彼は何とか九死に一生を得た。という言い方は大袈裟かもしれないが。
「そんなに慌てるな、ビッテンフェルト」
ラインハルトが笑いながら嗜める。彼はビッテンフェルトが詰まらせたり咽たりしている間に、もう食べ終わってしまっていた。
「も、申し訳ありませ…」
まだ少し苦しげにビッテンフェルトは答え、もう一口ドリンクを飲んだ。それを見て、ラインハルトが言った。
「すまないが、予にも一口貰えぬか?食べたら喉が渇いてしまった」
「ど、どうぞ、陛下」
ビッテンフェルトは慌ててズボンのポケットからハンカチを取り出し、ボトルの口の部分を拭ってから、ラインハルトに差し出した。ハンカチを持っていて良かった、と彼は心から思った。普段は持っていない事が多いので。
「そんなに気を使わなくとも良いのに」
困ったように金髪の皇帝は微笑んで、それを受け取った。紅淡色の花弁のような唇をボトルに付け、こくりと飲み込む様子を見守りながら、ビッテンフェルトは心拍数が上昇するのを自覚した。間接キスしてしまった、とそれこそ思春期真っ最中の少女が考えて胸をときめかせるような事柄が頭の中に浮上したからである。自分でも意識し過ぎだな、と苦笑しながらもビッテンフェルトはやはり頬を紅潮させていた。
「美味かった、有難う」
ラインハルトがボトルを差し出し礼を言う。少し濡れた唇が何だか妙に色っぽく見えて、ビッテンフェルトは伏目がちにドリンクを受け取った。微風が吹いて、ビッテンフェルトのその熱くなった頬を撫ぜてゆく。ざわざわと緑が揺れて、木漏れ日も揺れた。光の中のラインハルトはやはり美しくて、ビッテンフェルトはどうしていいか判らなくなった。黙り込んでしまったオレンジ色の髪をした猛将に2,3秒好意に満ちた視線を向け、ラインハルトは目を瞑った。
「そういえば、昔もこんな事があった」
独り言めいた言葉が、その形の良い唇から紡がれる。その声音がひどく穏やかで幸せそうなのに、ビッテンフェルトは少し戸惑い、しかし何も言わずに皇帝の次の言葉を待った。
「予がまだ十かそこらの頃だ。キルヒアイスと共にピクニックに出かけた事があった」
ああ、だから。ビッテンフェルトは胸の中に諦めと嫉妬の混ざり合った悲しみが広がっていくのを感じた。今は亡き親友との想い出に浸る時だけ、陛下は幸福になれるのだ…。
「広い野原でシートを敷いて、姉上に作ってもらった弁当を広げて、二人で食べた。その時に予がおかずを喉に詰まらせてしまって、キルヒアイスに助けてもらった。……アイツ、俺が喉に詰まらせるのを見通してたみたいにすぐに紙コップを差し出してきて、何だか悔しかったな」
「陛下…」
「どうして、あの頃はあんなに楽しかったのだろう。思い出すと、泣きたくなってしまうくらいだ」
「陛下…」
「もう、戻れやしないのに」
そうしてラインハルトは黙り込んでしまった。伏せられた長い睫に縁取られた蒼い宝石のような双眸が、一瞬きらりと光を弾いたのは、ビッテンフェルトの気のせいだったろうか。
ビッテンフェルトは歯痒かった。悲しんでいる皇帝を慰めたいのに、いい言葉が見つからない。何かないか、と頭をフル回転させるが、何も思い浮かばなかった。もしも今ここに居るのが自分ではなくミュラー辺りだったならば、きっと何か心利いた優しい言葉で、この美しい人を慰める事が出来たであろうに…。
「泣かないで下さい…陛下」
彼には、それだけ言うのがやっとだった。その言葉にラインハルトは顔を上げ、微笑んだ。
「すまない、ビッテンフェルト。困らせてしまったな」
「いいえっ、陛下…いいえ」
ビッテンフェルトは途切れ途切れに答える。彼は、自分こそが声を上げて泣きたかった。それは、ラインハルトの笑顔があまりにも透明で美しかったからであり、そして悲し過ぎると思ったからだ。
どうして笑うのです。辛いのならお泣きになって下さい。
どこまでも無理をするラインハルトが痛々しくて、ビッテンフェルトはやりきれなかった。自分の無力さが、身を切るような痛みすら伴って、心に突き刺さる。
それでもラインハルトは硝子細工のように繊細な微笑を湛えたまま、言った。
「卿は、優しいな」
そう言い残すと彼はベンチを立って、ホテルの中へと戻って行った。ビッテンフェルトは追わなかった。追いかけて抱き締めたいと思ったけれど、追わなかった。どうしようもなかったのだ。
ビッテンフェルトは空を見上げた。張り詰めた青空はやはり綺麗で、涙が止まらなかった。

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