闇夜

今夜は、真っ暗だ。
空は分厚い雲に覆われて、星が一つも覗かない。
あるのは闇色の天だけで、光の欠片も見当たらない。
こんな空は、どうも、よくない。こんなものを見たら、きっとあの方は哀しくなるだろう。
蜂蜜色の髪をした元帥は、そう思った。

ミッターマイヤーは今、さほど流行っていない、しかし落ち着いた雰囲気の心地良い酒場で一人、酒を飲んでいた。普段ならば親友のロイエンタールが一緒の筈だが、彼は、今日は用事がある、と言って仕事が終わると同時に何処かに消え失せてしまった。
(フン。どうせ今頃あの方と一緒なのだろう)
決まっている。女との逢瀬には何時間遅刻しようが構わないと思っているような男だ。先程の、やたらと急いでいた様子を思えば、相手は予想に容易い。金髪の主君、彼だろう。
(いくらそういう仲だとはいえ、今日のこの日、あの方と共に居るのは、大変だろうなぁ)
今日は、ジークフリード・キルヒアイスの命日であった。きっと皇帝の落ち込み様は尋常ではないだろう。ミッターマイヤーは親友の苦境を思い、同情した。しかしまあ、所詮他人事である。あの、極めて身勝手な男が、一体どのような言葉を尽くして愛しい金髪の恋人を慰めているのやら、想像するだけで、笑みが零れる。ミッターマイヤーは忍び笑いを漏らしながら、年代物のワインを飲み干した。人の不幸は蜜の味、とまで言うわけではないが、しかし、一体どんな事を言って沈み込んだ皇帝を励ましたのか、明日ロイエンタールを問い詰めてやろう。そんな風に楽しい空想に耽っていたミッターマイヤーだった。しかし運命とは時に人の予想の付かない出来事を運んでくるものである。今夜のミッターマイヤーが、まさにそれであった。
「やっと見つけた」
声と共に突然、後ろから肩に手を置かれた。振り向き見上げれば、そこに居たのは――――
「陛下!?」
ミッターマイヤーは椅子から立ち上がり、大声を上げた。
「な、何で、どうしてここに!?」
「何をそんなに驚く、ミッターマイヤー?」
ラインハルトは笑って問い返した。煌く蒼氷色の瞳が、薄暗い酒場の中では眩しい程に輝いて見える。
「ふふ。そんなに驚くな。隣に座って良いか?大本営から歩いてここまで来たから、少し疲れてしまった。喉も渇いたし、何か頼もうかな。ああ、ここは暗いからもうこれを被っていなくても平気だな。帽子は暑苦しくて、好きではないんだ」
一息にそこまで言って、ラインハルトは深く被っていた黒い帽子を脱いだ。変装していたつもりだったのだろう。流石に全宇宙の統治者が一人でうろつくのはマズイと考えて。
ミッターマイヤーは、眩暈がした。何故皇帝がこんな所に居るのだ。おかしいだろう、どう考えても。
元帥ともあろう人物がこのような場所に一人で居るのも十分おかしいのだが、ミッターマイヤーは自分の事は取り合えず棚の上に置いておく事にしたらしい。とにかく気分を落ち着ける為に、彼は蜂蜜色の頭を抑えながら、もう既に腰を下ろしているラインハルトの隣に座った。そして一呼吸置いて、現状を理解しようとラインハルトに問うた。
「あの、どうしてここにいらっしゃったのですか?先程私を探していらした様な事を仰っていましたが」
「ああ、そうなんだ。お前を探してここに来た」
「何か御用でしょうか?今日はロイエンタールと予定がおありだったのではなかったのですか?」
「そう、そうなのだ!よく訊いてくれた。ひどいんだ。ロイエンタールのやつ!」
そう言ってラインハルトはパシンと掌に拳を叩き付けた。
「もうずっと前から今夜は一緒に居ようと約束していたのに、今日の夕方になっていきなりキャンセルを入れてきたのだ。ひどいだろう?しかも直接断るのではなくTV電話でだ!アイツ、俺と顔を合わせるのが嫌で、態と仕事が終わると同時に外に行っちまって、公衆電話からかけてきたんだ。ああ、本当に、なんて男だろう」
形の良い唇をくっと突き出して、細い眉を顰める。ラインハルトはそのような表情でさえ、美しかった。佳人と呼ぶに相応しい主君の美貌に束の間見惚れてから、ミッターマイヤーははっと我に返って尋ねた。
「ロイエンタールの事は判りましたが、それでは、貴方がここにいらした理由は一体…?」
「ああ、それで俺、いきなりキャンセルしてきたロイエンタールに散々文句を言ってやったんだが、その時アイツが言ったんだ。私の代わりにミッターマイヤーと過ごされたら如何でしょう?今夜はお一人ではお辛いでしょうから、って。そう思うのなら自分が傍に居ればいいのに!まぁ、そんなわけで、ロイエンタールが、ミッターマイヤーはこの辺の酒場に居るだろうって教えてくれて、それで俺はここに来たというわけだ。まったく、卿の親友は本当に冷たい男だな」
全てを聞き終えたミッターマイヤーは深い深い溜息を吐いた。ラインハルトの「冷たい男」という言葉に激しく頷きたい。ロイエンタールはミッターマイヤーを売ったのだ。キルヒアイスの命日に、自分はラインハルトと一緒に居たくないが為に。
(あンの卑怯者!覚えておけ!裏切り者のロイエンタール!)
ミッターマイヤーは手にしたワイングラスいっぱいに酒を注ぎ、一気に飲み干した。自棄酒だ。
「あ、一人で飲むなんてズルイぞ。俺にも寄こせよ」
ミッタマイヤーの心中なぞまったく判っていないらしいラインハルトは無邪気な笑顔でそう言って、ミッターマイヤーの杯を奪い、注いでくれ、と突き出してきた。こうなるともう、ミッターマイヤーに逃げ場は無い。今夜はとことん付き合うしかないだろうと、遠い目で窓の外を見遣った。
相変わらず空は曇りで、星はろくに見えない。
だから、目の前の綺麗な瞳はこんなにも寂しそう。



酒が進めば、酔いも回る。カウンターにぐたりと伏せてしまったラインハルトに、ミッターマイヤーは危惧の眼差しを向けた。
「ここで眠らないで下さいよ。困るのは俺なんですから」
ラインハルトはとろんとした目でミッターマイヤーを見上げて、にこりと笑った。
ひどく柔和な笑み。まるで、夕陽の中の、花のよう。
「いいじゃないか。俺が眠ってしまったら、お前に全てを任せるから、好きにしていいぞ」
今にも溶け出しそうな、蒼い瞳が誘っている。危うく惑いかけた心を正すように、蜂蜜色の髪を振り、ミッターマイヤーは言った。半ば自分に言い聞かせるように。
「何を仰っているんですか。貴方にはロイエンタールがいるでしょう」
ラインハルトが一瞬、不思議そうに首を傾げた。だがすぐに遠い目をして寂しげに宙を見つめた。置き去りにされた子供のような顔をしている。
「…ああ、そうだな。俺にはロイエンタールがいる。それに、ミュラーもいるし、エミールもいる。だけど、俺、一人ぼっちだ。だって、そうだろう。ロイエンタールの馬鹿は、お前も知っての通りの酷い仕打ちをしやがるし、ミュラーは出張でいないし、エミールはまだ子供だし。な、みんな酷い。酷いんだ…」
酔って鼻にかかったような甘い声は、聴いているだけで、心を絡め取られてしまう。ミッターマイヤーは、柔らかな金髪を撫でたい衝動に駆られたが、しかしまだ強固に残る理性で何とか留まった。
「お前も、酷い」
ぽつりと、桜色の唇から詰る様な言葉が漏れる。ミッターマイヤーは表情で何故と問うた。
「だって、何もしてくれない」
ラインハルトは不貞腐れた様に、ぷいと横を向いてしまった。本当に、子供のようだ。思わず苦笑してしまう。
「一体何をしろと言うのです。あまり困らせないで下さいよ」
そう言って、ラインハルトの手からグラスを取り上げた。元々それ程酒に強いわけでもあるまいに、今日は飲み過ぎている。仕方の無い事かもしれないが。
「酷い、皆酷い……馬鹿ぁ…」
呂律の回らない口調で、ラインハルトはそう繰り返す。もう、酔っ払ってしまっているのだろうか。ミッターマイヤーの胸中に、不安と安堵が同時に広がる。
「酔ってなんか、ないからな」
まるでミッターマイヤーの心を読んだように、ラインハルトは顔を上げた。
「それでも、飲み過ぎでしょう」
「いいんだ。どうせ酔えないし」
ミッターマイヤーの手からグラスを奪い返し、また酒を注いだ。それを美しい唇に流し込みつつ、途切れがちに呟く。
遠いあの日に、想いを置いたままに。
「…なぁ、どうしてなんだろう。いくら飲んでも、考えてしまう。思い出してしまう。そんな事をしたって、どうしようもないって、判っているのに。…なぁ、何故、どうして。何で、こんな事に…?」
今日は、空は曇りで、淡い蒼の瞳も、曇っていて。
「皆、皆、俺の事なんか、どうでもいいんだ。アイツみたいに、俺を置いて行くんだ。きっと」
星が見えないと、とても不安。真っ暗で、何も見えない。
「…………あいして、るのに……」
どうか、見捨てないで下さい。


ついに眠り込んでしまったラインハルトの髪に手を伸ばし、軽く撫でる。ミッターマイヤーは、今度は口付けたい衝動に駆られたが、やめておいた。自分には彼を救う事など、絶対に出来やしない事が、よく判っているからだ。この想いは、同情に過ぎないのだと、そう思い込もうと、目を瞑る。それでも暗闇の中に浮かぶのは、今にも泣き出しそうな、彼の笑顔だった。


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