淡雪

雪が、降っている。
凍えそうな寒さが、涙をも凍てつかせてくれる。
こんな夜は、何も考えなくて済む。

――――だから、好きだと思った。



ラインハルトは、待っていた。
深々と降り積もる雪に全ての雑音は吸い込まれ、辺りは完全な無音である。絶えず舞い降りてくる氷の欠片を払おうともせずに、冷え切ったコンクリートの上に座り込んだまま、金髪の若者は真白な花弁を降らせる真暗な夜空を見上げていた。悴んで赤く染まった指に、息を吹きかける。しかしその程度で温まる筈も無い。ラインハルトはもう、2時間も雪の中で待ち続けていた。傘など持ってはいない。着込んでいるコートにはフードが付いていたが、被るのも物憂くて、彼はその見事な金髪が濡れるに任せていた。流石に寒さが身体の芯にまで染み付いてしまい、思わず溜息が零れ落ちてしまう。
(皇帝ともあろう者が、こんな所で凍え死んだら、とんでもない笑い話だな)
端麗な唇に少し皮肉げな笑みを滲ませる。ラインハルトはまた口元に手を持っていき、息を吹きかけた。そんな事をしたとて無駄だと判りきってはいたが。
不意に、眩しいライトがラインハルトを照らした。蒼氷色の瞳を細めて、彼は自分に近寄ってくる地上車に目をやった。
(やっと帰ってきたな)
立ち上がり、ラインハルトは自分の前に停まった車の中の人物に向かい笑いかけた。窓に手を付き、言ってやる。
「随分遅いじゃないか。ずっと待っていたのに。どこへ行っていたのだ?」
中の人物―――――ロイエンタールは常の平静を失ったような顔をして、ラインハルトを凝視していた。


「どうして貴方がここに居るんです」
「卿に会いに来たに決まっているだろう。存外頭が悪いのだな」
二人はロイエンタールの地上車に乗っていた。しかし走らせてはいない。ロイエンタール家の門前に停車したままである。
「とにかく、私がお送り致しますから、大本営にお戻り下さい」
先程からロイエンタールが語気も荒くそう説得しているのだが、ラインハルトは頑として聞き入れなかった。
「嫌だ。折角卿の家まで来たのだから今日は泊まっていく。予はそう決めたのだ」
言い放ち、ぷいと横を向いてしまう。
「そんな馬鹿な事を仰らないで下さい。きっと皆心配していますよ。キスリング准将も気の毒に。それにエミールも心配しているでしょう。泣いているかもしれませんよ」
皇帝お気に入りの小姓の名前を出してみるが、しかし効果は無かった。むしろロイエンタールを泣きたくさせるような言葉が返ってくる。
「ああ、それなら心配ない。エミールは予の共犯者なのだ。あれが今夜は予の私室には誰も入れずにおいてくれる事になっている。だからキスリングも予が居なくなった事には気付かない筈だ。と、言う訳で今夜卿の家に泊まっていっても少しも問題は無い」
眩しい笑顔で、ラインハルトは言った。ロイエンタールは、困り果てた。彼は、この金髪の若者には逆らえないのだ。頭ではこのまま大本営に車を走らせさっさとこの我侭皇帝を親衛隊に引き渡してしまえばいいと判っているのだが、それが、出来ない。自分でもどうしてなのか明確に理由を把握出来てはいないのだが、とにかく彼は、ラインハルトに逆らえなかったし、逆らおうとも思わなかった。どうでもいい、というのが彼の本心であり、ラインハルトもまたそうであった。
「……判りました。陛下のお好きなように」


「いいですか、絶対に顔を出さないで下さいよ。皆にバレたら大事ですから」
「判っている、判っている」
ロイエンタールに肩を抱かれて、コートのフードを深く被って顔を隠したラインハルトは上機嫌で頷いた。そして、思い切り馴れ馴れしくロイエンタールの胸に縋り付く。
「陛下、動き辛いのですが」
「いいじゃないか。予は恋人のフリをしなければならないのだろう?」
「それはそうですが…」
そんなことを言っている間に、玄関の前にまで辿り着いた。ロイエンタールは一つ深呼吸をし、チャイムを押した。すぐにドアが開き、使用人が出迎える。
「お帰りなさいませ」
「あ、ああ」
ロイエンタールの返答は、普段より多少ぎこちない。ラインハルトは何だか無性に可笑しくて、笑いを噛み殺すのに苦労していた。しかしとにかく正体が露見してはならない、という目的の為に堪えた。
「風呂を用意してくれないか。その後は皆下がってくれ」
ロイエンタールはそれだけ言い置くと、ラインハルトの背を抱いて私室へと足早に向かった。


ロイエンタールの私室は、黒と深い青で統一された、洗練された調度の置かれている趣味の良い部屋だった。彼らしい、とラインハルトは小さく微笑む。
「何を笑っているのです?」
不審げにロイエンタールが問いかける。
「いいや、別に何でもない」
ロイエンタールを見上げ、ラインハルトはにこりと笑った。その笑顔を見て、ロイエンタールは先程から幾度目かも判らない溜息を吐いた。
「まったく、貴方は本当にどうしてこんなに私を困らせるんですか」
「そう怖い顔をするな、ロイエンタール。折角の美男が台無しだぞ。ああ、まぁ怒った顔も悪くは無いが」
「私の顔の事などどうでもいいんですよ」
「あ、その顔好き。そう目を細めると青い片目のキツさが増してとても魅力的だ」
「………」
ロイエンタールは、もう会話する気力すら失いかけた。しかし何とか声を押し出して
「バスルームは部屋を出て左です。とにかくその格好では風邪を引いてしまいますので、どうぞ」
それだけ言って、今までで最も大きな嘆息を漏らした。


大理石の広い浴槽の中で、思い切り足を伸ばす。
長時間雪の中に居た為に冷え切ってしまっていた身体が蘇るようだ、とラインハルトは満足げに息を吐いた。微かに香気のする湯を掬い上げ、顔を洗う。頬に染み付いた雪の残骸が溶け出していくのが心地良かった。ロイエンタールは今頃何をしているだろう。きっと深刻そうな顔をして溜息を吐いているか、苛々と部屋をうろついているかしているに違いない。その様を想像してラインハルトは、ふふっと楽しげに笑みを漏らした。しかし、すぐにその微笑みはまるで湯が流れ落ちるように消えてしまう。不意に、虚しくなったのだ。ロイエンタールの前で殊更に無邪気に振舞う自分に。
(こんな事をしても何にもならないのにな」
早く見限ってくれればいいのに、とラインハルトは自分でも望んでいるのかいないのか定かではない事を呟いて、瞼を閉じた。


「ああ、いい湯だった。お前も入ってくるといい」
ロイエンタールの私室に戻ったラインハルトは濡れた髪を拭きながらロイエンタールに笑いかけた。
「いえ、私は結構です」
ロイエンタールは故意に感情の灯らない、抑揚の乏しい声を作って答える。ラインハルトは不思議そうに首を傾げた。
「…今日は、やらないのか?あ、いや、別に予は卿が風呂に入っていようがいまいが構わないが」
「陛下…」
「冗談だ」
こんな会話も、いっそ虚しい。彼らは共に胸中で諦め混じりの溜息を吐く。何故なら二人ともこの関係が不毛以外の何物でもありはしないと理解し過ぎるほどに理解しているからだ。態と稚い言動で振舞うラインハルトも、それに付き合ってやるロイエンタールも、自分達が下らない茶番劇を演じている事など百も承知だった。それでも本音で触れ合うつもりは微塵も無い。どちらにしても結局のところまったく意味の無い事だからである。
「ああ、それにしても寒かった。予は2時間も雪の中で卿を待っていたのだぞ。この健気な振る舞いには流石の卿も心打たれるものを感じるであろう?」
「…そうですね」
ロイエンタールはラインハルトと目を合わさぬようにして答えた。ラインハルトが少し心外そうに頬を膨らませる。
「そんな呆れたような顔をするな。冗談だと先程から言っておろう」
「承知しております」
「それなら良い。しかし本当に一体どこに行っていたのだ。今日は特に長引くような仕事は無かった筈だが……。あ、そういえばミッターマイヤーと約束していたのだったか。どこぞに飲みに行くとか」
「ええ。その筈でした」
「筈?」
「待ち合わせのバーに行ったは行ったのですが、ミッターマイヤーは用事があるとかで酒も飲まずにそそくさと帰って行ってしまいましてね。だから今日はこんな中途半端な時間に帰宅したというわけです」
「ミッターマイヤーの用事なぞ、どうせ奥方を待たせているとか、そんなものなのだろう?」
悪戯っぽいニュアンスを含んだラインハルトの問いに、ロイエンタールは少々忌々しげに片頬だけで笑ってみせる。
「ご明察の通りです。今日は夫人が新作のケーキを作って待っているとか」
「ケーキ!卿はケーキに負けたのか!」
ラインハルトは心底楽しげに笑い声を上げた。その鈴を振るような声が部屋に響く。
「そんな大声で笑わないで下さい」
ロイエンタールの言葉に「すまない」と応じながらも、ラインハルトは込み上げる笑いを押しとめる事が出来ずに肩を震わせている。そんな金髪の主君に微妙な一瞥を送ってから、ロイエンタールはラインハルトが風呂に入っている間にメイドに持ってこさせたワインへと手を伸ばした。深紅の液体をグラスへと注ぎ、唇へと運ぶ。それを一気に呷る。喉と食道を焼け付くような感覚が滑り落ちる。そうしてもう一杯、彼は飲み干した。早く酔いが回ってくれればと、無駄な希望を抱き、しかしすぐに自嘲する。酔っていようがいまいが、何も変わらぬ、と。
「何を考えている?」
ラインハルトが髪を拭いていたタオルをばさりと床に放り出して、ベッドに腰掛けているロイエンタールの膝に伸し掛かり、その金銀妖瞳を覗き込む。誘惑しているのは果たしてどちらなのだろうか、と不意に双方の胸に疑問が生まれ、しかしそれもまたどうでも良かった。
「愛しい愛しい親友殿に振られた可哀想な卿を、予が慰めてやろう」
そう言ってラインハルトはロイエンタールの頬を両手で挟み込み、唇を重ねた。そうしてロイエンタールの唇に残るワインの名残を舐め取り、ラインハルトは身に着けていたバスローブを緩め、その真白な肌を露にする。一般的な目で見れば、それはひどく扇情的な身体なのであろうが、しかしロイエンタールは少しも興奮した様子など見せない。
「それは有難い。しかし陛下、私は別に振られたわけではありませんから」
涼しい顔をして、ロイエンタールは言った。ラインハルトは面白そうに口端を歪め笑う。
「強がりを言うな。可哀想なロイエンタール」
「可哀想なのはどちらなのでしょうね」
二人は束の間見つめ合い、一瞬沈黙が彼らを支配した。しかしそれも一瞬の事。ロイエンタールは無言のままラインハルトをベッドに引き倒し、細い手首を押さえつけた。別段、ラインハルトが抵抗すると思っての事ではない。ただ、目の前のこの人物を、否、誰でも良いから、自分の力で押さえつけ、嬲りたくなった。それだけだった。
ラインハルトは凍りついたその瞳にきらりと嘲笑を閃かせ、目を閉じた。


ロイエンタールの掌が、唇が、体中を辿る。激しく情熱的な仕草だが、ラインハルトは知っていた。ロイエンタールが自分に対して一片の情欲も抱いていない事を。それでも別に構わない。自分だとて同じ事なのだから。ラインハルトはロイエンタールの、その左右の色の違う双眸を見上げた。今日は、どこか辛そうな色が滲んでいると思った。やはりミッターマイヤーの事で少々苛立っているのかもしれない。そう考えたらラインハルトは可笑しくて堪らなくなった。込み上げた笑いを押し殺しきれなくて、ラインハルトの喉が震える。ロイエンタールが訝しげにラインハルトを見たが、しかし彼は何も言わずに愛撫を続けた。
(もしも)
ラインハルトの心に意地の悪い空想が広がる。もしも。
この男が、あの蜂蜜色の髪をした親友を失ったらどうなるだろう―――。
そんな事は、想像に容易い。
きっと、自分のようになってしまうに違いない。自分のように、外界を拒絶し、過去を追い続け、どこまでも灰色の世界に独り生きてゆくことになるだろう。この、不敵で、強く、美しい、完璧とも評せる見事な男も、きっと。
益々笑いが込み上げる。ああ、何て可笑しいのだろう。
ラインハルトには判っていた。ロイエンタールにとってはミッターマイヤー以外の人間など、どうでもいいのだ。この男にはただ、あの親友だけが真実なのだろう。その弱さが、不似合いで苛立たしく、酷く見苦しくて、それでもラインハルトは彼を美しいと思った。自分にもそんな時があった。だから、泣きたくなるのだろう。
「窓を、開けてくれ」
ラインハルトの言葉に、ロイエンタールは不審げに眉を寄せる。しかし言う通りにしてくれた。
「冷たい」
開け放たれた頭上の窓から粉雪がふわりと舞い込み、ぽつりと二人の肌を濡らした。入り込んでくる冷気と身体に満ちる熱とが溶け合って、まるで雪空に抱かれているようだ、とラインハルトはぼんやりと抽象的な事を考え、軽く息を吐いた。白い吐息は儚く消えてしまう。何もかも、そうだと思った。
「そんな目をしないで下さい」
ロイエンタールが言った。
「そんな瞳は、貴方には似合わない」
ラインハルトの蒼い双眸には透けるように柔らかな光が滲んでいた。ラインハルトはふっと笑みを漏らし、ロイエンタールに口付ける。触れるか触れないかの口付けは、淡雪のようだ、とどちらともなく思った。

似合わない?だったら奪ってみればいい。何もかも。

オーベルシュタインなどとはまた違った意味で、目の前のこの男も―――ロイエンタールも、自分に理想の君主像を求めている事に、ラインハルトは昔から気付いていた。強く、烈しく、比類ない皇帝でいて欲しいのだろう。無理な注文だ。そんな夢想は早く捨てた方が身の為だ。だがそれを口にはしなかった。ラインハルトは好ましく思っているのだ。ロイエンタールの中にある、少年のように美しい夢を。
そこでラインハルトは思考を止めた。これ以上、考える事に何の意味がある?今はただ、眼前の温もりにだけ意識を向けていればいい。
なおも舞い込んでくる氷の花弁に舌を伸ばし、ラインハルトは口内に束の間広がった冷たさに酔いしれ、微笑んだ。
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送