夕刻

密やかな足音が聞こえる。また、彼が訪れる。


「何か御用ですか?」
殊更に平静を装った声を作り、ロイエンタールは言った。手にしていた書類をデスクの引き出しにしまい、顔を上げる。隠し扉から現れた人物は立ち止まり、困ったような仕草で首を傾げた。窓の外には薄闇が拡がり、眩い夕陽が西の地平に輝いている。だから、窓を背にした侵入者の表情はロイエンタールには読み取る事が出来なかった。
「用が無いのならばお帰り願いたいのですが」
面倒くさげに、ロイエンタールは溜息を吐く。壁の時計が、六時を知らせた。それを合図にしたかのようにロイエンタールは椅子から立ち上がり、帰り支度を始めようとする。暫く窓際に立ち尽くしたままだった人物が、カツンと一つ足を踏み鳴らした。折角訪ねて来たというのに、まったく熱の無い応対をされて、招かれざる客人は気分を害したようだ。
「そんな言い方をしなくても良いだろうに」
子供のように頬を膨らませ、歩み寄って来る。ロイエンタールは羽織ろうとしていたコートをデスクに置いて、彼に向き直ってやった。
「…また、お忍びごっこですか?陛下」

ロイエンタールが私室に一人になる夕刻。三、四日に一度、ラインハルトは訪ねて来た。皇帝ともあろう者が、供の一人も連れずに、隠し扉から忍んで来る。新無憂宮の数ある隠し通路の一つがラインハルトの執務室とロイエンタールの私室を繋いでいる事を知ってから、彼は度々ロイエンタールの元を訪れた。ラインハルトの真意は測れない。しかし、望まぬ素振りをしながらも、ロイエンタールはいつも迎え入れてやっていた。

「お忍びごっこ…か。まぁ、そうだ。それにしてもロイエンタール、いつも思うのだが、折角恋人が会いに来たのだがら、もっと嬉しそうな顔をしてくれても良いのではないか?」
からかい混じりの声音が部屋に響く。人形のような白い面に浮かべた微笑は華やかで軽薄だ。夕陽に映し出されたラインハルトの影が、ロイエンタールに覆い被さり、視界が暗くなった。
「あまりつれないと、予は寂しい」
言いながら伸ばされた細い腕が、ロイエンタールの首に絡みつく。ロイエンタールは何も言わずにラインハルトを抱き込んでやり、唇を重ねた。目を開けたままのラインハルトの双眸に、一瞬、恐怖にも似た光が浮かんで消える。いつもこうだ。自分から誘ってくるくせに、その度に怯えたような顔をする。馬鹿馬鹿しい。ロイエンタールは一層強くラインハルトを抱き締めた。こんな彼は、自分の敬愛する主君ではない。しかし腕の中の存在は、紛れも無い現実だった。
華奢な肢体はあまりに儚く、夕陽に輝く瞳は虹色で、こんな時、ロイエンタールはいつも、やりきれない。どうして彼はこんなにも脆い?強く、強く、誰より強くなくてはならない筈なのに。

「どうしてそんな顔をする?」
ラインハルトが不安げな表情で問うてきた。我に返ったロイエンタールは無理矢理に口端を持ち上げ、いつもの冷笑を作り、ラインハルトをデスクの上に押し倒した。
「私が、どんな顔をしていると言うのです?陛下」
耳朶に息を吹きかけ囁く。ラインハルトはぴくりと肩を竦めて熱い吐息を吐き出しながら答えた。
「泣きそうな…顔を、している。…何故だ?」
潤んだ蒼氷色の瞳に映る自分は、確かに泣きそうな顔をしている。ロイエンタールは頭の片隅で自嘲する。作った冷笑は失敗に終わったらしい。それでも本音を話すつもりはなかった。
「気のせいでしょう。そう言う貴方こそ、いつも泣きそうな顔をしていますよ、皇帝陛下」
言いながらラインハルトの襟元を開き、噛み付くような接吻を与えた。強張っていた肢体はくたりと脱力し、後は思うままになった。
快楽に震える身体は、こんなにも正直なのに。咽び泣くような甘い声が耳に痛い。夕闇に包まれた部屋の中、確かなのは温もりだけだ、とらしくもなくロイエンタールは感傷的になった。

「夕陽はもう、沈んでしまったな」
気だるげにデスクから身を起こすと、ラインハルトはぽつりと呟いた。衣服を身に付けながら、ロイエンタールは目線だけをラインハルトに向ける。俯いた彼の表情は、闇の中でも見事に輝く金髪に覆われて判らなかった。
「もうこんな時間ですからね」
七時三十分になっている時計を指し答える。
「どうして夕陽など気にするんです?」
声は返らない。聞かずとも判る。だから、何も言わなくていい。――――――夕陽は、赤だから。
下らないと思った。いつまでも捕われたままの彼が。
それでも思い切れない自分も、やはり滑稽なのだろう。
ロイエンタールは遠く窓の外の星空を見上げ、目を瞑った。
泣きそうになっている自分が、可笑しくてならない。


欲しいものは、一つだけ。


その時彼は、乞うように願った。
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