暁を望む声 (2)
あのひとの絶望に眩んだ瞳が好きだった。
午前四時ごろだろうか。まだ夜明け前だというのに、ロイエンタールは目を覚ましてしまった。
二月の寒い朝である。隣にあるはずの温もりの欠如が、彼の覚醒の原因だったかもしれない。
もう一週間以上、彼はラインハルトを抱いていなかった。
イゼルローンでの捕虜交換式のためキルヒアイスがオーディンを発ってから、ラインハルトがロイエンタールの邸に泊まりにくることはなくなった。
それはロイエンタールにとって、なかば予想通り、なかば予想外のことだった。
先日の夕暮れ、ラインハルトがロイエンタールの邸を出て行った後、彼はラインハルトの自宅であるシュワルツェンの館にTV電話をかけた。門閥貴族たちからのラインハルトへの憎悪がとみに高まっている昨今だ、一人で帰したのは危険だったかもしれないと少し心配になったのだ。一応キルヒアイスにいっておこうと思った。
電話にでた赤毛の若者は、画面ごしに、つねのとおりの礼儀正しい微笑をうかべ、ロイエンタールの話をきいて頷いた。
「わかりました。通りの辺りまで出てお捜ししてみます。わざわざのご連絡、ありがとうございました」
そういって一礼した後のキルヒアイスが、一瞬、ロイエンタールに対してなにか言いたげな、かすかに怒りの滲んだ視線を射こんできたことに、彼は気づいていた。
(ローエングラム侯が俺の邸に泊まっているのが気にいらんというわけか)
温和な若者の青い双眸をよぎった鋭い光を脳裏に反芻しながら、ロイエンタールは冷笑した。それならもっと大事にしてやればよいのだ、と思った。
(俺がもう何度あの方を抱いたと思っている)
恋しい人の白い肌を、涙がちな蒼い瞳を想った。
初めて会ったときから、ロイエンタールはラインハルトに心奪われていた。自分より九つも年下の人間に夢中になるなど、愚かなことだとは思ったが、しかしそれはまぎれもない事実だった。
ラインハルトは美しく、眩しかった。まるで神のように。この世ならぬ光をまとう麗人だった。
そして、現王朝を打倒しようという巨大な野心。誰ひとり敵う者とてない、その才能。
どうしようもなく、彼はその存在に魂を奪われた。
しかしそれだけが心惹かれた理由ではなかった。
ラインハルトは時々、そのような他者を圧倒する覇気や外見とは裏腹な、どこか怯えがちな、あどけない子供のような表情を、ふと見せるのだった。そのことに初めは驚き、ついで興味をひかれた。そしてしばらく観察するうちに、気づいた。ラインハルトがそのような顔をみせるのは、キルヒアイスを見つめるときだけだ、と。
まるで恋しい男をひたぶるにみつめる女のような、そんな目で、かなしげにキルヒアイスだけを見つめているのだ、ラインハルトは。
才能の巨大さと人格の未成熟さがアンバランスなのだと思った。この巨大な帝国をわが物としようという野心、そしてそれを実現させる才能を有しながら、ラインハルトの心はまるで子供のまま時をとめてしまったように、幼かった。
そのことに驚き、少々の失望感を抱きながらも、しかしそんなラインハルトから彼は目が離せなかった。
何度か軽口に紛らせながら口説き、けれどそのたびに彼の美しい上官は苦笑がちに微笑んで、まるで取り合おうとはしなかった。
そんなラインハルトに、ロイエンタールはわれ知らず、のめり込んでいった。
できるなら、振り向かせたいと。そしてその悲しみを、消し去ってみたいと。
あれは、半年前のことだった。三千万の叛乱軍が帝国領への侵攻を始めたばかりのころ、ロイエンタールは初めて、ラインハルトを抱いた。
あの静かな秋の夕べ。音もなく雨が降りそそいでいた。
(あのときも、まるで縋るように、あの方は…)
ロイエンタールに抱かれながら、声もなく涙を流しつづけていたラインハルトの幼い泣き顔が脳裏に甦る。初めは痛みに泣いているのかと思った。だが、違った。ラインハルトは心の痛みゆえに泣いていたのだ。ラインハルトの身体は無垢ではなかった。あの赤毛の男に抱かれたことがあるのだろう。
(だが、相愛ではないのだろう)
そう、ロイエンタールは思った。だからラインハルトはロイエンタールに縋るのだ。よるべない目をして、絶望に息もとまりそうな顔をして。
ラインハルトがロイエンタールに抱かれるのは、キルヒアイスとのあいだに何らかの問題が生じたときだけのようだった。
アムリッツァ戦の前の焦土作戦。意図的に民衆を飢えさせるという作戦に、あの善良な赤毛の男は反対でもしたのかもしれない。そしてそのことに傷ついたラインハルトはロイエンタールの腕のなかに堕ちてきた。
今もそうだ。フリードリヒ四世が死に、姉であるグリューネワルト伯爵夫人が後宮から辞し、ラインハルトは姉と赤毛の親友とともに三人でシュワルツェンの館に住みはじめた。そしてそれ以来、あのあどけない金髪の天使はロイエンタールの邸に泊まりにくることが多くなったのだ。
ラインハルトがなぜ、そのような行動をとるのか、彼は正確に洞察していた。
(恋敵があの姉君ではな)
叶うはずがないのだ。あの方の恋は。
どうやらキルヒアイスとグリューネワルト伯爵夫人が想いあっているらしいということは、ラインハルトの言葉の端々から知れた。そしてラインハルトには、姉からキルヒアイスを奪うつもりなど毛頭ないのだということも。
(あの赤毛の男は、なにを考えているのか)
どうも読めない、と思う。姉と想い合いながら、弟を抱くのか。
(悪趣味の極みだな)
冷笑しつつ、気の毒なラインハルトのことを思う。
オーディンを発つ前のキルヒアイスと、なにかあったのだろうか。シュワルツェンの館に住みはじめてからうち沈みがちなラインハルトが少し哀れになって、キルヒアイスと仲直りでもすればと思い(まあ、もとより喧嘩などをしたわけではなかったのだろうが)、あの赤毛の男のもとに帰してやったのだが、それ以来ラインハルトはロイエンタールの邸には来なくなった。キルヒアイスとの仲が修復されたのかとも思うが、そのわりには元帥府で見るラインハルトの表情は悲しげなままで、まるで傷ついた子供のように、放心がちにぼんやりと窓の外などを眺めている。ロイエンタールが話しかけても上の空で答えることが多かった。
(まあ、いいさ。そのうちあの方の方から何かいってくるだろう)
ロイエンタールはベッド脇のサイドテーブルの上の煙草へと手を伸ばし、火をつけた。深く吸い込み、煙を吐きだす。
ロイエンタールは確信していた。
ラインハルトにはロイエンタールのほかに、縋れるような人間がいないのだということを。
そしてそのことが、自分とラインハルトにどのような未来をもたらすのか、今はまだ、知る必要はないのだということを――…。
ふと目線を窓へと転じる。
いつのまにか夜は明けはじめ、窓外には薄明るい光が広がりはじめていた。
シュワルツェンの館の、自室のベッドで一人眠っているだろうラインハルトが、せめて幸せな夢を見ていればいいと、彼は思った。
【続く】