暁を望む声 (1)



 キルヒアイス、キルヒアイス、キルヒアイス。
 何度名前を呼んだだろう。
 お前がおれにふり向いてくれるように、と。



「ラインハルト様、嬉しそうですね」
 新無憂宮からの帰り道、後ろを歩くキルヒアイスが声をかけてきた。そういう彼の声もまた弾んでいる。
 ラインハルトはふり返り、赤毛の親友を見あげ、笑顔をみせた。
「そりゃあ嬉しいさ。今度の出征で武勲を立てれば、俺は元帥閣下だ。元帥府を開設して、自分の好きな幕僚を任命できるんだぞ。気に入らない部下を使うのも、これが最後だ」
 そういって、彼は自分の拳を手のひらにパシッと叩きつけた。
 ラインハルトは今しがた、皇帝の謁見室にて、アスターテ星域への出撃を命じられたところだった。ロイエンタールやミッターマイヤー、それにメックリンガーなど、ラインハルト気に入りの将官たちを伴えず、メルカッツやシュターデンなど、使いづらい老将たちを率いて戦わねばならないのは不満だが、それもこれで最後だと思えば、出征への意欲に心も弾む。
「アンネローゼ様も、お喜びくださるでしょうね。ラインハルト様が元帥に昇進なされば」
「…ああ、そうだな」
 キルヒアイスの言葉に、ラインハルトは今度はふり向かずに答えた。キルヒアイスに姉の名を出されると、ひどく胸が痛むのだ。もう、何年もまえから。
 時は夕暮れどきだった。空は薄紅に染まり、艶やかな夕雲が、風に乗ってどこまでもたなびいてゆく。一月の寒い空だった。
 冬の冷たい澄みきった空気が好きなラインハルトは大きく息を吸い、吐いた。胸のつかえもすべて、吐き出せたらいいのにと思いながら。
「キルヒアイス、家まで競争しよう。負けた方が、夕食のデザートにケーキを買ってくるんだ。いいな」
 そういって、ラインハルトはいきなり走り出した。
「ラインハルト様!」
 キルヒアイスの声が背中から追いかけてくる。歩道の石畳を踏んで軽快に駆けぬけながら、ラインハルトは軽く唇を噛みしめ、すぐに解いた。
 風が冷たい。この恋しさも、つめたく凍りつかせてくれたらいいのに。
 思いながらふり返れば、愛しい赤毛の幼馴染が、苦笑しながら追いかけてくる。ラインハルトだけを見つめて。
(そうだ)
 お前には、俺だけを見ていてほしい。
 願いはいつも、それだけだった。


 二万の艦隊を率いてイゼルローン方面へと発つ数日前、軍務省の自分の執務室で一人、作戦の最終確認を行っていたラインハルトのところに、一人の男が訪ねてきた。
 金銀妖瞳のロイエンタールである。ラインハルトより九歳年長のこの男は、ラインハルトがキルヒアイス以外で初めて、ゴールデンバウム王朝打倒の決意を明かした人物であり、他の部下たちとは多少違う扱いを、ラインハルトはこの男に与えていた。
 例えばこのように、予めの連絡もなしに突然訪ねてきても、嫌がらずに会ってやるというような。
「どうした、ロイエンタール?」
 戦術シュミレーション中のコンピュータから顔をあげて、ラインハルトは微笑んでやる。するとロイエンタールも微笑みかえす。国中の女性が骨抜きにされてしまいそうな、魅力的な笑顔で。
「もうすぐ出征されると聞きましたので。しばらくお顔が拝見できなくなりますからね。会いに来ました」
 ずいぶんと愛想の良いことをいう。ラインハルトは少しおかしくなって、吹きだした。
「そんな言葉は、女性にいってやれ。私にいっても何も出ないぞ」
 ロイエンタールは肩をすくめ、「つれない方だ」などといって、ラインハルトに近づいてくる。ラインハルトは椅子に座ったまま、微笑んで、美丈夫の部下の顔を眺めていた。
「女などよりも、あなたの方がよほど魅力的ですよ、閣下」
 囁きながら髪をなでてくるロイエンタールの金銀妖瞳は、優しげな光を湛えている。ラインハルトを見るとき、この男はいつもこのような眼差しをする。途方もなく優しく、哀しいまでに穏やかな。
 ラインハルトは自分の髪を撫でる男の手をとって、頬を寄せた。
「卿のそういう軽口が、私は嫌いではない。卿は優しい男だ」
 それだけいって、ラインハルトはすぐに男の手を離し、椅子から立ちあがった。
「もうすぐキルヒアイスが来る。そろそろ下がれ」
 ロイエンタールは一つ苦笑して下がっていった。
 しばし、室内に男の身を飾っていた香水の香が漂い、ラインハルトは意味もなく首をかしげた。
 キルヒアイスが気づくだろうか、と少しそれが気になって、窓を開ける。
 窓外には冬の青空が広がっていた。


 アスターテでの戦績はまあまあのものだった。
 最後の最後でヤンとかいう男に反撃を許すことになりはしたが、二万隻の艦隊で四万隻の敵を屠ったのだ。これでラインハルトの元帥昇進は確実のものとなった。
「おめでとうございます、ラインハルト様」
 キルヒアイスがにこやかにいって、ラインハルトのグラスに芳醇な赤ワインを注いでくれる。
 場所は、オーディンへ帰還途上のブリュンヒルトのラインハルトの私室。二人きりでの夕食中である。
「お前だって将官に昇進だ。楽しみにしておけよ」
 ラインハルトの言葉に、キルヒアイスはただ黙って、微笑んでいる。
 ラインハルトはキルヒアイスに気づかれない程度に、眉をひそめた。こんなとき、彼はふと不安になるのだ。キルヒアイスは本当は昇進することを望んではいないのではないか、と。ラインハルトによって引きずりあげられることを、喜んではいないのではないか、と。ラインハルトは一度も訊ねてみたことはないし、キルヒアイスも何もいわないが、その予感はたぶんそれほど外れていないのだろうと、彼は思う。
 そして少しの自己嫌悪に陥るのだ。自分のせいで、キルヒアイスに望まない人生を歩ませているのではないか、と。自分の野望にキルヒアイスを巻きこんで、彼から望む人生を奪っているのではないか、と。
 それが分かっていても、いまさら引き返すことは叶わない。
 ラインハルトは小さく息をつき、しいて笑みをうかべた。
「少し酔ってしまったみたいだ。もう休もうかな」
 ラインハルトの言葉に、キルヒアイスは優しく頷き、すぐに寝室の用意をしてくれる。
 椅子に腰かけたまましばらくぼんやりしていると、キルヒアイスはそんなラインハルトを抱きあげて、ベッドまで運んでくれる。そして優しい口づけを落として、髪を撫でる。ゆっくりと身を離し、ラインハルトに柔らかな布団をかけて、部屋を出て行く。
 ラインハルトはなかば眠ったふりをしながら、まるで切り裂かれるような胸の痛みに耐えていた。涙が湧きあがってくるのを堪え、嗚咽を呑みこむ。
 行かないでほしい、と思った。
 けれどいえるわけもない。
(キルヒアイスが愛しているのは姉上だ)
 宇宙には夜も昼もない。それでもラインハルトにはいま、世界が真っ暗にみえた。まるで闇の深淵のように真っ暗だ、と。
 

 その夜は夢をみた。
 初めてキルヒアイスに抱かれたときの夢だ。もう、三年近くまえのことだった。
 その頃のラインハルトとキルヒアイスは憲兵隊に配属されていて、幼年学校での殺人事件の捜査にあたっていた。そんな中、ラインハルトの父が急死し、その葬儀で二人は久しぶりにアンネローゼに会うことができた。
 その日は雨が降っていてひどく暗い日だった。しかし、黒い喪服に身を包みながらも、アンネローゼの姿はまるで光を滲ませるように美しかった。そんなアンネローゼの姿を、キルヒアイスはひどく真剣な眼差しで見つめていた。まるで、彼女しか目に入っていないかのようなようすで、ただ一途に、美しい年上の女性を見つめつづけていた。そんなキルヒアイスの隣に立ちながら、ラインハルトは息もできないほどに悲しかったのを覚えている。
(キルヒアイス、キルヒアイス、俺がここにいることを、お前はいま、忘れているんじゃないか!?)
 心のうちで叫びながら、ラインハルトは拳を握りしめ、唇を噛みしめた。
 以前から薄々気づいていたことに、確信をもったと思った。キルヒアイスはアンネローゼが好きなのだ。ただの好意ではなく、憧れでもなく、その想いは、恋と呼ばれるたぐいのもので、ラインハルトがキルヒアイスに抱いているものと、同じなのだ、と。
 ほとんど絶望するように、春の雨の降りそそぐ、暗い墓地にぼんやりと視線をさまよわせた。救いがほしいと思いながら。けれど何も見つかるはずもなく、仕方なく視線を姉と、姉を見つめる親友へと戻し、もしも神がいるのなら、と思った。
(俺はただ、昔のように三人で幸せに暮らしたいだけなんです)
 応える声はむろんない。どこまでも空は暗かった。
 幼年学校での事件が解決し、その功績によって昇進が内定し、しかし次の転属先が決まらないラインハルトとキルヒアイスは、しばし、空き時間を持つことになった。憲兵隊に行っても軍務省に行ってもやることがないので、自宅待機というかたちで、リンベルクシュトラーゼの下宿でのんびりと過ごしていた。
 そんなある日のことだ。階下の老婦人たちに内緒で、二人でワインを飲んでみようということになった。まだ未成年の二人は、いつも夕食時にも酒は飲ませてもらえていなかったのだ。
 二人でこっそりと酒屋へ行き、ワインとグラスを買ってくる。そして、二人の老婦人が眠りについてしまうのを見はからってから、ラインハルトの部屋で酒盛りを始めた。
 初めて飲んだ酒は苦かった。それでも飲みすすめるうちに体が温かくなっていき、何とはなしに心が弾んでいくのが楽しかった。ラインハルトはグラスに三杯で限界になってしまったが、キルヒアイスは酒に強いらしく、いくら飲んでもそれほど酔ったようにもみえなかった。けれどたぶん、彼も酔っていたのだ。だからラインハルトの想いを受け入れてくれた。酔っていたから。
 温かくなった体と、火照った頬で、自分が酔っていることをぼんやりと認識しながら、そのときラインハルトは思ったのだ。今なら、もしかしたら、と。そんな想いに突き動かされるように、ラインハルトはキルヒアイスに抱きついた。
「ラインハルト様?」
 不思議そうに目を瞬かせるキルヒアイスに、精一杯の想いをこめて、口づけた。キルヒアイスの唇は熱かった。酒のせいだろうと思いながら、ラインハルトは何度も、何度も、角度を変えて口づけをくり返し、小さな、本当に小さな声で囁いたのだ。
「好きなんだ、キルヒアイス…」
 キルヒアイスの体から力が抜けるのが分かった。そして、その一瞬後、ラインハルトはベッドに押し倒されていた。なかば恐れ、なかば期待していたとおりに。
「ラインハルト様、私も、あなたを…」
 その先をいおうとするキルヒアイスに、ラインハルトは慌てて口づけ、言葉を奪った。嘘などいわせてはいけない、と。
(いいんだ、キルヒアイス。無理にそんなことをいわなくたって、いいんだ)
 思いながら懸命に、キルヒアイスにしがみ付いていた。痛みも、熱も、すべてがまるで夢のようで、ああ、いまここで時がとまればいいのにと願いながら、最愛のひとのぬくもりに酔いしれた。それは、酒などよりもはるかに心地よい、そして残酷な酔いだった。陶酔から覚めたあとの絶望が、わかりきっているから。それでも、それでも、俺は…。
 夜は短かった。時はとまることなく朝が来た。
 カーテン越しに射しこむ朝日に照らされたキルヒアイスの寝顔をみつめながら、もう戻れない、とラインハルトは思った。
 傍にいるだけで幸せだった、あのきらめくような少年の日々には、もう二度と戻れないのだ、と。
 膝をかかえて、ラインハルトは泣いた。キルヒアイスを起こさぬように、懸命に声を殺しながら。
(お前に受け入れてもらえて、嬉しいはずなのに)
 どうしてこんなに胸が痛むのだろう、何を間違えたのだろう、どうすればよかったのだろう。
 何もわからない。
 わからないまま、薄明るい白い朝日を浴びながら、ラインハルトはただ泣きつづけていた。
 誰に助けを求めることもできなかった。

 
 秋の雨は冷たかった。
 しかし小雨である。ラインハルトは傘も差さずに新無憂宮の庭園を歩いていた。キルヒアイスはおらず、一人きりである。なんとなく、一人になりたい気分だったのだ。
 七日ほど前から、叛乱軍による大規模な帝国領侵攻が始まっている。せっかくイゼルローン要塞を陥落させたのだから、外交交渉にでも出てくればよいものを、愚かな軍事的冒険に走るとは、笑止の極みだった。
 しかしそれを利用して武勲を立て、ラインハルトはまた一段と地歩を固めることができるだろう。
 そこまで考えて、ラインハルトは淋しく唇だけで微笑んだ。望んだものを、確かに手に入れつつあるのに、どうしてこんなにも心が空虚なのだろう。
 悲しげなキルヒアイスの眼差しが脳裏に甦り、彼は軽くかぶりを振った。
(勝つためだ、キルヒアイス)
 心中で呟いてみる。けれどたぶん、そんな言葉で彼は納得してはいないのだろう。民衆を故意に飢えさせて、それを敵軍への罠に使うなどということは。それがわかっていても、ラインハルトには他にいうべき言葉が見つからなかった。勝つためだ、キルヒアイス。力を得て、姉上を取り戻すためだ――…。
 体がずいぶんと冷えてしまった。ラインハルトは濡れて重くなった前髪をかき上げて、灰色の曇天を仰いだ。こんなふうに濡れて帰ったら、キルヒアイスが心配するとわかってはいたが、この物憂く沈んだ心と、戦いに熱く灼ける脳細胞を、凍りつくほどに冷ましたかったのだ。
 心と頭がばらばらになっているような気がした。なんとなく、この乖離はこのさき益々酷くなっていくような予感を、彼は覚えていた。
(そうしたら、俺はどうなるだろう―…)
 キルヒアイスさえ傍にいてくれれば平気だと思った。きっと彼はラインハルトの暴走を止めてくれる。必ず、どんなことをしてでも。
 そこまで考えたとき、背後で人の気配がした。いつまでも元帥府に戻ってこないラインハルトを心配して、キルヒアイスが探しにきたのかもしれない。
 唇に、今度は翳りのない笑みを浮かべてふり向けば、けれどそこにいたのはロイエンタールだった。
 濃紺の傘を差している。そしてそれを、ラインハルトに差しかけてくる。
「風邪をひきますよ、閣下」
 どこか困ったような声音。ラインハルトは苦笑した。
「捜しに来たのか、わざわざ?」
 ラインハルトの言葉に、ロイエンタールは肩をすくめて、口もとだけでちょっと笑ってみせた。この男のこんな表情が、自分は嫌いではない、とラインハルトは思った。きっと女相手には、こんな顔、絶対にみせることはないのだろう。
 ラインハルトは大人しく男の傘に入り、身を寄せた。ロイエンタールがそっと肩を抱いてくる。
 温かい、とラインハルトは思った。キルヒアイスでなくとも、こんなにも温かい。それなのに自分にはキルヒアイスしかいないのだ。どうしてなのだろう。何かを間違えたのか。それとも、それとも、それが愛しているということであって――…
「閣下、どちらへ行きますか。元帥府へ? それともご自宅へ?」
 ロイエンタールの地上車の中である。助手席で、ラインハルトは小さく首をふった。濡れた髪が首すじに張りついて不快だった。
「卿の家へ」
 ロイエンタールは何もいわずにエンジンをかけ、車を発進させた。
 雨音が遠い。ラインハルトは瞼を閉ざした。少し眠りたかった。


 アムリッツァで叛乱軍を撃滅し、勝利を収めてオーディンに帰還してみれば、帝国の首都星は漆黒の弔旗で覆い尽くされていた。
 皇帝が死んだのだ。
 それを知ったとき、さすがのラインハルトも一瞬驚いて息がとまった。そして次の瞬間には、姉上がやっと帰ってくると思い、嬉しさに笑顔になりかけて、しかしすぐに息つまるような不安に押しつぶされそうになった。
 キルヒアイスはどうするだろう。あんなにも何年も想いつづけた相手が、ようやく自由の身になったのだ。想いを伝えるだろうか。それとも慎ましい彼は何もいわず、今度は近くから、美しい年上の女性を愛しつづけるのだろうか。
 そのときラインハルトはどうすればいいのだろう。
 キルヒアイスはきっと、ラインハルトとのことをアンネローゼに知られることを恐れるだろう。もう二度と、ラインハルトを抱くことはなくなるかもしれない。ラインハルトの恋情を疎ましく思うようになるかもしれない。
 恐怖に目も眩みそうになりながら、それでも彼はしいて微笑もうとした。不安げな顔をしていては、キルヒアイスに心配をかけてしまう。そうだ。これはめでたいことなのだ。姉上が俺たちのもとに帰ってこられるのだから。
「三人で住むための家を探そう、キルヒアイス。姉上がお喜びになるような、広いキッチンのある、美しい庭のある家を」
 ラインハルトの言葉に、キルヒアイスは深く頷いた。彼は嬉しそうだった。かすかに頬が紅潮している。青い目に、深い海のような愛情を湛えて。
 ラインハルトは微笑んでいた。心が破れて、血が噴き出しそうだと思った。それでも笑っているしかなかった。


 シュワルツェンの館に住みはじめてから、ラインハルトは外泊することが多くなった。
 仕事がまだあるから、と元帥府の私室に泊まり込んだり、ときにはロイエンタールの邸に泊まったり、できるだけ家に帰らないようにしていた。
 幸せそうな二人の姿をみているのが辛かったのだ。
 キルヒアイスは相変わらずラインハルトに優しかったし、アンネローゼも昔と変わらぬ愛情を弟に注いでくれていた。しかし二人が確かに想いあっているのがわかるだけに、自分の居場所はここにはないような気がした。どうしようもなく淋しくて、ロイエンタールに縋ることが多くなった。ラインハルトには他に助けを求めることができる人間などいなかったのだ。ずっと、姉とキルヒアイスしか見ないで生きてきたから。
 そんなラインハルトを、ロイエンタールはいつも何もいわずに家に迎え入れてくれた。彼は淋しげで、でも嬉しそうだった。そんな男の優しさに縋りながら、自分の惨めさに泣きたくなった。どうしてこんなことになったのだろう。ただキルヒアイスが好きなだけなのに…。
(それでも二人が幸せならいいんだ)
 思いながら、ラインハルトはロイエンタールの腕の中で目を閉ざすのだった。
 夜が長い。いつまでも明けない暗い暗い世界のなかで、ラインハルトは願うのだった。
 いつまでも、キルヒアイスと姉上が幸せでありますように、と。
 ああ、神様。
 どうして。


 フリードリヒ四世の死後、ラインハルトは爵位を侯爵に進め、宇宙艦隊司令長官の位を得た。
 それに伴いキルヒアイスも一気に上級大将に昇進させ、宇宙艦隊副司令長官に据えた。
 宇宙を手に入れる、という、少年の日にみた二人の夢の実現は、もうほとんど既定の事実のように思えた。
 しかし、近頃のラインハルトとキルヒアイスは、昔ほど親密に、つねに共にいるということはなくなっていた。ラインハルトもキルヒアイスもそれぞれに仕事が忙しくなり別々の執務室を構えているし、ラインハルトは何かと口実をつけては家に帰らない日々がつづいている。
 そんなラインハルトに、キルヒアイスは何かいいたげだったが、しかし何もいってはこなかった。ただ心配げな眼差しでラインハルトを見つめ、目が合うと、少しかなしげに微笑むのだった。
 淋しい、とラインハルトは思った。夢はどんどん叶っていくのに、それに比例して、淋しさばかりが増してゆく。
(キルヒアイス。お前は俺をどう思っている?)
 訊きたくて、しかし恐ろしくて決して口にだすことのできない問いが、胸を焼く。
(俺はお前の、何なんだ?)
 どうか教えてほしい。
 そうしたら、そのとおりに振舞うから。
 お前への想いなど、むりやりにでも、封じ込めて――…。


「閣下、そろそろお帰りにならなくてもよろしいのですか?」
 ロイエンタールが訊いてくる。休日の夕暮れ時だった。もう二晩も彼の家に泊まっている。ラインハルトは窓辺で本を読んでいたが、顔をあげて、年上の部下の顔をながめた。
「私がいては迷惑かな? ロイエンタール大将」
 まるで元帥府にいるときのように階級付きで呼ばれて、ロイエンタールが苦笑する。
「いいえ、閣下。いつまででもどうぞ」
 ラインハルトは頷き、目線を手元の本に戻したが、もう読む気がしなかった。脳裏にキルヒアイスと姉の面影がよぎる。今ごろ二人は、夕食の準備でもしているだろうか。台所に立つ姉と、「なにかお手伝いすることはありませんか」と声をかけるキルヒアイス。まるで子供のころのように。しかし子供のころと違うのは、二人のあいだに、確かに通いあう温かな恋情があるということ。そしてそこに、ラインハルトの居場所は、もうないのだということ。
 ラインハルトは深いため息をついた。もうなにかを考えるのもいやで、窓ごしに、黄昏てゆく金色の空を見やった。ひとつふたつ、星もでている。はやく宇宙へ行きたいと思った。地上は俺の居場所じゃないんだ。あの星々の海だけが、俺の居場所なんだ。そうだろう…?
 誰にともなく問いかけて苦笑する。最近キルヒアイスとプライベートでの会話をあまりしていないせいか、こうして心のなかで独り言をいうことが多くなった気がする。嫌だな、と思った。
 そんなラインハルトの手から本を取りあげて、ロイエンタールがいった。
「やはりお帰りになったほうがよろしいでしょう」
 ラインハルトは眉をひそめて男を見あげる。
「もうすぐキルヒアイス上級大将は、捕虜交換のためにイゼルローンに行ってしまうのでしょう? お話したいことがあるのなら、お帰りになったほうがいい」
 優しく微笑みながら、しかしどこかなにかを諦めているような口調でいう。普段はまるで剣のように鋭い光を放っている青い左目が、憂いに沈んだように翳っている。なぜだろう、とラインハルトは思った。お前は俺のことが好きなはずなのに、どうしてキルヒアイスのもとへ帰そうとするのだろう。
 なんとなく突き放されたような気分になって、ラインハルトは立ちあがった。
「わかった。帰る」
 それだけいって、ドアへと向かう。「いま車を出します」というロイエンタールの声を無視して、階段を下り、玄関を出る。門まで来たところでロイエンタールに腕を掴まれたが、何もいわずに振りほどいて、そのまま門を出た。
 ロイエンタールはそれ以上追ってはこなかった。良かった、とラインハルトは思った。これ以上彼の哀しげな目を見ていたら、ただでさえ沈んだ気分でいるところを、罪悪感にまで苛まれて、やりきれなくなりそうだった。
(そんな目をされたって、俺は)
 どうすることもできないのだ。ロイエンタールはキルヒアイスではないのだから。
 決してふり向いてやれないくせに、ロイエンタールの優しさにつけこんで、それを利用している自分は、おそらく酷いことをしているのだろう。
 ラインハルトは空を見あげ、強く強く光る星を探そうとした。まるで救いを求めるように。しかしまだ日が沈みきってはいない時間で、それほど強い光を放つ星は出ていなかった。
 風が強い。二月の夕暮れは、身を切るような寒さだった。
(やっぱりロイエンタールに送ってもらえばよかった…)
 思いながら目をつぶり、ポケットに手を突っこんだ。
 あのころに帰りたい、と、祈るように思った。


 玄関のポーチにキルヒアイスの姿が見えた。
 夕暮れどきの薄紫の空を背景に、淡い星明かりに照らされながら、赤毛の友は優しい微笑みとともにラインハルトを迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、ラインハルト様。夕食の準備をして、アンネローゼ様もお待ちですよ」
 いつもどおりの穏やかな優しい声。ラインハルトはなぜとはなくほっとして、軽く息を吐いた。
「外にでて待ってたのか? 帰るかどうかもわからないのに」
 少し苦笑しながらいってやると、キルヒアイスは玄関のドアを開けながら答えた。
「先程、ロイエンタール提督からTV電話があったのですよ。閣下がお一人でお帰りになったから、一応迎えにでた方がいい、と」
 キルヒアイスの言葉に、ラインハルトは小さく肩をすくめた。
(過保護だな、あいつも)
 門閥貴族どもとの関係が緊張の一途をたどっている昨今、確かにラインハルトの一人歩きは少々危険なのかもしれないが、深夜というわけでもあるまいし、少し心配しすぎだと思った。
「お呼びくださったら、すぐにお迎えにあがりましたのに」
 心配げにいうキルヒアイスに脱いだコートを手渡しながら、ラインハルトは曖昧に微笑んで、なにも答えなかった。
(お前以外の男に抱かれている場所に、お前を呼ぶなんて)
 そんなこと、できるわけがない。
 ラインハルトは無理やりに笑顔をつくり、しいて朗らかな声をだしていった。
「そんなことより、今夜の夕食はなんだ? いい匂いがする。やっぱり姉上の手料理は宇宙一だな」
 家のなかは温かく、明るかった。そのことにまた少しほっとする。自分の帰る場所は、やはりここしかないのだと。
(姉上がいて、キルヒアイスがいる。それだけでいいんだ。それだけで…)
 視線を奥へやると、アンネローゼがキッチンから顔を覗かせて、微笑みかけてくれる。
「おかえりなさい、ラインハルト。さあ、外から帰ったら手を洗ってらっしゃい。テーブルにできたての料理が待っていてよ」
 十年前と少しも変わらない情景だと思った。優しい姉と、優しいキルヒアイス。ラインハルトは笑顔で応じた。
「外から帰ったら手を洗ってこいだなんて、私は子供じゃありませんよ、姉上」
 あら、そう? と姉がおかしそうに笑う。キルヒアイスも笑っている。ラインハルトも笑った。
 もうそれだけでいいと思った。


 その夜、アンネローゼが寝たのを見はからって、ラインハルトはキルヒアイスの部屋を訪った。
 少し緊張しながらドアをノックをすると、すぐにキルヒアイスが顔をだした。
「どうなさいました、ラインハルト様」
「少しいいか?」
 ラインハルトが俯きがちに問うと、キルヒアイスは穏やかに微笑んで、室内に招じ入れてくれた。
「ホットミルクでもいれてきましょうか」
 ラインハルトを椅子に座らせると、そういってキルヒアイスは部屋を出ていきかけたが、ラインハルトはその腕をとって引きとめた。
「話があるんだ、キルヒアイス…」
 どこか思いつめたようなラインハルトの声に、キルヒアイスは立ちどまり、椅子にかけたラインハルトと目線を合わせるように腰をかがめ、顔を覗きこんだ。
「ラインハルト様? なにかご心配事でも…?」
 心配げに顔をくもらせる愛しい幼馴染の首に腕をまわし、ラインハルトはぎゅっと抱きついた。
 キルヒアイスが少し驚いたように身を強張らせる。しかしすぐに優しく抱き返してくれる。温かい腕。ラインハルトは泣きたくなった。
「俺、ロイエンタールに抱かれたよ。キルヒアイス。もう何度も」
 ぽつりと、そう呟いたラインハルトの言葉に、キルヒアイスが息を呑むのがわかった。
「お前には姉上がいるから。お前から離れなくちゃと思って…。ロイエンタールに抱かれたよ。だから、だから…」
 以前のような普通の友人同士に戻ろう、そういおうと思っていたのに、しかしラインハルトはそれ以上いうことができなかった。
 キルヒアイスに唇を封じられたのだ。息もつまるほどに深く。口づけられたのだ。
 ラインハルトは目を瞠いた。とっさにキルヒアイスの胸を押しかえして逃れようとしたが、力の差がありすぎて、かなわなかった。
(どうしてだ、キルヒアイス…)
 口内に入り込んでくるキルヒアイスの舌に応えながら、ラインハルトは自分の視界が次第に潤みはじめるのを自覚していた。世界が曇る。幸せな幻想に、また、酔いしれそうになる。もしかしたら、もしかしたら、お前は、姉上ではなく、俺を……
 しかしキルヒアイスはなにもいってはくれなかった。なにもいわずに、彼はその青い瞳に苦しげな色を浮かべて、ラインハルトを抱いた。いつもよりも強引な仕草だった。ラインハルトは呆然として、キルヒアイスから与えられる愛撫に弱々しく抵抗しながら、しかし結局抗いきれずに彼を迎え入れるしかなかった。
 熱い。ただ身体ばかりが。強く揺さぶられて、視界が溶ける。崩れ落ちる。なのに心はひび割れそうで。どうしようもなくひび割れそうで。痛くて、痛くて、息もできなかった。もういっそ、死んでしまえたらと願いながら、ラインハルトはキルヒアイスの背中にきつく爪をたてた。血が滲むほどに。
(キルヒアイス、お前は、)
 なんて残酷なのだろう――…。
 唇を噛みしめて泣くラインハルトの頬を、キルヒアイスの唇が優しくたどる。まるで渇えた人のように、キルヒアイスはラインハルトの頬に、瞼に口づけて、涙の痕跡を消そうとする。しかしあとからあとから湧き出る泉のように、ラインハルトの涙はとまらなかった。嗚咽で息が苦しくて、そのことがより一層ひどくラインハルトを泣かせた。まるで子供のように。
「…ラインハルト様、私がイゼルローンに行っているあいだ…」
 キルヒアイスの声が聞こえる。どこか、遠くから。
「…ロイエンタール提督には…」
 ラインハルトは無意識のうちにかぶりを振った。嫌だった。ロイエンタールの名など聞きたくはなかった。本当は、本当は、お前以外の男になんて、俺は――…
「…赦してください、ラインハルト様…」
 辛そうな声音。頬に落ちる、これは、…。
 泣くな、そういおうとして、ラインハルトはキルヒアイスを見あげた。前髪に隠れて、彼の顔はよく見えなかった。それでも彼が泣いているような気がしたのだ、ラインハルトには。
(どうしてお前が泣くんだ、キルヒアイス。俺にはお前しかいないのに)
 白々とした夜明け、ラインハルトはキルヒアイスのベッドでぼんやりと天井を見あげていた。
 キルヒアイスは行為のあとシャワーを浴びに部屋をでていったまま戻らない。
 もう、温もりすらも遠かった。
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