美しいなみだの夫人



 あなたの白い腕が、私の地平線のすべてでした。


 黄金色の夕陽が、新領土総督執務室を美しく染めあげていた。
 部屋の隅から、むずかる赤ん坊の泣き声が聞こえる。そして、戸惑いながらも懸命にそれをあやす従卒の少年のやさしげな声も。
 ロイエンタールは大きな窓を背にした椅子に腰かけたまま、深いため息をついた。もはや痛みも感じない。床には小さな血だまりができているが、それすらもどこか他人事のように思える。手足の感覚も薄れてきている。すこし寒い、と彼は思った。血を失いすぎたせいだろう。
 あのひとの温かい身体を抱きしめたい、とふとそんな思いが胸をよぎる。こんなときに何を考えているのだろうと自分がおかしかったが、しかしこんなときだからだろうとも思った。
 あのひとはいま、どこにいるのだろう。フェザーンの大本営だろうか。それとも、ブリュンヒルトを駆って、こちらに向かってきているのだろうか。裏切った愚かな部下の死にざまを見るために。
 ロイエンタールは苦笑した。そんなことがあるわけがない、と自分を嗤う。それほどまでに、最期にひとめ、あのひとに逢いたいのだと、自分の未練が哀れだった。
 彼は来ない。ここには来ない。無意味な叛逆をおこし、無様に死んでいく、あのひとと並び立つだけの力量も持たないような、そんな男のために、こんな辺境にまで来てくれるはずがない。
 それが悔しいわけでも、悲しいわけでも、なかった。ただ思うのは、自分が死んだ後、きっとあのひとは淋しがるだろうという、なんの確証もないのに確信できる、胸を切り裂くような未来の光景だった。その光景に、ロイエンタールの姿はない。あの美しい金髪のひとが、一人きり、ただ淋しげに宙をみあげ、胸のペンダントを握りしめ、呆然としている姿だけが、ロイエンタールの脳裏をよぎり、やりきれない。
 あのひとはいつもそうだった。ただ淋しげにひとり佇んで、周りにつどう臣下たちのことなど、その蒼氷色の瞳には映っていないかのような顔をして、ぽつりと、亡き親友の名をつぶやくのだ。
 俺は何度、そんなあの方に苛立ち、しかしどうすることもできなかっただろう、と彼は思った。
 キルヒアイスを亡くし、姉にも去られ、一人きりになった貴方は孤独で、もはや誰を愛そうともしなかった。
 そんなあの方を、俺は救いたかったのだろうか。それとも、それとも俺は、愛されないのならば、せめて、ともに滅びたいと――――…。
 もはやすべてが夢のようだった。あのひとを愛したことも、その白い身体を抱いたことも、胸を切り裂くような痛みも、すべて。
 部屋を染めるあでやかな夕焼け空の色を、ぼんやりとその金銀妖瞳に映しながら、ロイエンタールは愛したひとと過ごした数年のときを、静かに思いかえしていた。

 初めは、眩しい憧れだったのだ。
 たった十九。その年齢で、五百年続いた王朝の打倒を志し、全宇宙を手に入れようという野望をいだき、その実現にむけて宙を駆けるような足取りで、黄金の階段を駆けあがってゆく金色の獅子。
 これが天才というものか、と思った。腐りきった貴族社会。母をはじめとする愚かな女たち。くだらぬ世界にうんざりしながら、けれど胸のうちでそれらを罵ることしかできなかったロイエンタールに、生きる道を指し示してくれたのは、九つも年下の、あの美しいひとだった。
 宝石のような蒼氷色の瞳をいきいきと輝かせながら、眩い未来を語る。そのうつくしい白い指で未来を指し示し、なんのためらいもなく、血ぬられた黄金の道をゆく。
 戦神と美神に愛された歴史の寵児。そのような人間と出会い、道をともにできる幸運に、ロイエンタールは酔いしれた。
 美しいラインハルト。輝けるラインハルト。出会ったそのときから、あなたは俺の宝になった。
 べつに彼をどうしたかったわけでもない。ただ臣下として未来を共有できるということだけで、俺は満足だった。
 ラインハルトの隣にはつねに、優しげな赤毛の若者が佇んでいた。いついかなるときも金髪の覇者の隣にいて、彼を守り、気難しく癇性な彼の心を、穏やかな愛情で包みこんでいるようだった。
 そしてラインハルトはその赤毛の男のことだけを愛していた。彼だけを頼り、他の者には目もくれない。そんな盲目的な愛し方で、あの赤毛の男の想いに応えていた。
 そんな二人のあいだには、誰も立ち入ることのできない二人だけの世界が築かれていた。少し離れたところからそれを眺めながら、ロイエンタールにはそんな二人の世界すらも眩しかった。
 敵に対してはどこまでもひたむきな憎悪をぶつけるラインハルトは、だからこそ自分にとって大切な人間に対しては、自分の身も省みないような一途な愛情を抱くのだ。
 ロイエンタールにはラインハルトのそんな感情の起伏の激しさもまた魅力的に映っていた。憎悪にせよ愛情にせよ、あのひとが自分に対してそのような強烈な感情を抱き、見つめてくれたなら、どれほどの陶酔を得られるだろうと、そんな愚かな夢想が胸をよぎり、苦笑することもたびたびだった。
 夢想。そう、それは単なる夢にすぎないはずだった。キルヒアイスが死ぬときまでは。
 キルヒアイスが死んだあのときから、俺のなかで愚かな夢が現実味をおびて息づきはじめ、そしてそれに気づいたあのかたが、その夢に血の色をした水をそそいで、壮大な赤い花を咲かせようとしたのだ。叛逆という、赤い赤い、鋭いとげのある、深紅の薔薇を。
 あの方は死にたがっていた。「いつでも挑んできてかまわない」という言葉にこめられた意味を、ロイエンタールは正確に読み取っていた。あれはつまり、「俺を殺してくれ」というあの方の心からの叫びだったのだ。
 いつか叛いて俺を殺してくれるなら、俺はお前に何でもくれてやろう。あの方の瞳はそう語っていた。それはロイエンタールの思い込みではなかった。その証に、ある夜、彼がラインハルトに口づけたとき、あの美しい金髪の覇者は、抵抗すらしなかった。
 むしろ嬉しげにロイエンタールの口づけに応え、自らすすんで身体を開いた。上気した白い肌も、細いあえぎを洩らす赤いくちびるも、生理的な涙にうるんだ蒼い瞳も、すべてがどうしようもなくロイエンタールの興奮を煽った。どんな抱き方をしても、ラインハルトは文句ひとつ言わなかった。ただ、とほうもなく冷たい蒼い瞳で語るのだ。いつか、おれを、殺してくれたなら、と。
 ロイエンタールもその想いには言葉では答えず、愛の動作で告げた。いつか、かならず、と。
 二人で過ごした、いくつもの夜、それでも俺は幸せだったのだと、ロイエンタールは思った。
 あの方が俺を見ていたわけではなく、ただそのさきに死の夢を見ていただけだったとしても、それでも俺は幸せだった。あの方が自らを殺す刃として、多くの部下のなかから俺を選んでくれた、その光栄が、俺の心を酔わせ、現実を見る目を、くもらせた。
 愛されているような錯覚に陥ったのだ。もしかしたら、彼は、と。
 けれど錯覚は錯覚にすぎない。ロイエンタールは何度も、自らの愚かな夢に裏切られた。
 ラインハルトが自らを殺す刃として愛したのは、ヤン・ウェンリーだった。
 そしてそれ以上に、ラインハルトは死んだキルヒアイスのことしか見ていなかった。
 たとえば、ガイエスブルク要塞移動計画のとき、ラインハルトはヴァルハラ星系へとワープしてきた要塞の大広間に入り、キルヒアイスが死んだあの広間にひとり閉じこもり、いつまでも出てこなかった。皇帝に即位してからは、亡きキルヒアイスに大公の位を贈り、ジークフリード・キルヒアイス武勲章などという、完全に私的な思いを満足させるためだけの勲章を作ったりもした。そしてなによりロイエンタールの心に深い傷を負わせたのは、回廊の戦いを終結させたのが、ラインハルトの夢に現れたキルヒアイスの亡霊だったということだ。幾人もの臣下がヤン・ウェンリーとの無用な戦いを止めるようにと皇帝を説得したが聞きいれられず、ロイエンタールの言葉も無論、ラインハルトには届かなかった。しかし、キルヒアイスの霊は、いとも簡単に頑なな皇帝の心を溶かし、事態を建設的な方向へと導くことができたのだ。
 それほどに、ラインハルトはキルヒアイスの死後も、キルヒアイスのことしか見ていなかった。彼の生前と同じように、ただ一途に。
 ラインハルトの胸にはいつも、うつくしい銀色のペンダントがかかっていた。彼の白い肌の上に、輝くあの首飾りはよく似合ってはいたけれど、ロイエンタールにはあの銀の鎖がラインハルトへの縛めのように思えてならなかった。
 一度だけ、見たことがある。あの銀のペンダントには、キルヒアイスの遺髪が入っていた。ロイエンタールはなぜともなく背筋に寒気を覚えた。ラインハルトのなかではキルヒアイスはまだ生きているのだと思った。
 そしてふと、子供のころに女中に聞かせてもらったおとぎ話を思いだした。女神のフレイヤは、美しい首飾りが欲しいという己の愚かさのために夫を失い、その後、自らの罪の証として、その首飾りを身につけつづけたという。彼女の流した涙は金色のしずくとなり、それゆえ彼女は後世の詩人たちから、「美しいなみだの夫人」と呼ばれるようになった。
 まるでラインハルトのようだと思った。夫を失った美しい女神。自らの罪に苦しみながら、声もなく涙を流す。ロイエンタールに抱かれながら、いつも、ラインハルトは泣いていた。生理的な涙をながすラインハルトは、きっとそんな方法でしか涙を流すことができなかったのだ。ラインハルトを抱くたびに、ロイエンタールはラインハルトの涙が、まるで金色のしずくのように思えてならなかった。
 自らの罪の証として身に付けつづける銀のペンダント。あの方は囚人なのだと思った。そしてあの方をその牢獄から出してやる方法は、ただひとつ、戦いのなかで死なせてやるしかないのだ、と――…。
 そして、血の色をした叛逆の夢の花が咲いた。あのかたの望みどおりに。
 けれど、とロイエンタールは苦笑とともに思わずにはいられない。俺の力不足のせいで、こんなにもお粗末な結果になってしまった。あまりの期待外れに、ラインハルトはきっと憮然としているに違いない。
 ロイエンタールは目をあけて、周りを見回した。あたりは相変わらず夕陽の光線に染められて、いつのまに泣きやんだのか、赤子の声も聞こえない。机の上にはウイスキーの瓶と、二つのグラス。
 そう悪くない人生だった、と彼は思った。心から愛せる眩しい主君がいた。心から愛せる友がいた。とほうもない夢を抱くこともできた。けれど、ただ心残りなのは、ひとり残される愛しい金髪の恋人のこと。
 マインカイザー、と彼は心のうちで呼びかけた。届けばいいと思いながら。
 あなたはいつも独りだったけれど、それでも私はいつもあなたの傍にいた。あなたの夢は誰にも理解されなかったけれど、それでも私は命をかけてあなたの夢をかなえようとした。あなたは私を愛さなかったけれど、それでも私はあなたを愛していた。あなたは誰よりも不幸だったかもしれないが、それでもあなたを愛することができて私は誰より幸福だった。
 死の抱擁に身をまかせながら、ロイエンタールは、夕暮れに青く染まってゆく部屋のなかに、ふと美しいまぼろしを見たような気がした。
 あのうつくしい金髪の麗人が、その白い腕をさしのべて、ロイエンタールを抱きしめる。
 陶器のようにすべらかな白い頬に、透明な金色のなみだが流れおちて、ロイエンタールの額におちる。
 まるで、ロイエンタールの罪を清めるように、それは途方もなくあたたかな涙だった。
 ああ、あなたは赦してくれるのか。
 愚かな俺を。あなたの夢をかなえることすらできなかった、無力な俺を。
 ロイエンタールは抱き返そうとした。けれどもう、腕が動かなかった。
 もういい、というように、ラインハルトが首をふる。その頬はもう、涙に濡れてはいなかった。蒼い瞳も、悲しみに曇ってはいなかった。ただ透きとおるように透明で、淡い光にきらきらと輝き、なにかいいたげだった。
 何ですか、と彼は問いかけようとして、けれどもう声もでなかった。
 ラインハルトのやわらかい唇を、頬に、耳もとに感じながら、ロイエンタールは聞いたように思った。
 俺も、愛してたんだ、という、すこし照れたような、やさしい声を。
 ロイエンタールは微笑んだ。
 知っていました、と心のうちで答えながら、彼は静かに瞼をとざした。





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