忠臣 (1)
星々の光が、なぜだかひどく遠く感じる。
お前がおれを置いて、遠くへと旅立ってしまったからだろうか。
「ロイエンタール元元帥の死亡が確認されました」
ラインハルトにそれを告げたのは、意図的に感情を消し去ったかのようなシュトライトの声だった。
”影の城”からフェザーンへと向かう帰還の途上である。旗艦ブリュンヒルトの皇帝私室にてその報を受けとったラインハルトは、有能な副官も、忠実な小姓も退室させて、部屋に一人きりになった。
胸にかかったペンダントを握りしめ、けれど彼はいつものようにキルヒアイスに向けて語りかける気にはなれなかった。
窓辺に佇み、星々の海をながめる。それは、少年のころから、ラインハルトがこの世でいちばん好きな景色だった。そのはずなのに、いま彼の心は重く沈み、蒼氷色の瞳も暗く翳って、窓外の景色など目には入ってはいないようにみえる。
彼はいま、何も見てはいなかった。彼は、永遠に失われた、彼の臣下のことを思っていた。
臣下。まさしく臣下だったのだ。あの男は。ロイエンタールは。
ヤン・ウェンリーを失い、戦いを失って、失意に沈む皇帝の心をなぐさめる、ただそのためだけに、彼は不名誉な叛逆を起こして死んでいった。ロイエンタールだけだった。敵が欲しいと、戦い続けたいと、願わずにいられない、ラインハルトの魂の渇望を理解してくれたのは。
ラインハルトは深いため息をつき、ペンダントから手を離し、冷たい窓ガラスに額をよせて、目をつぶった。
瞼裏に、ロイエンタールの美しい金銀妖瞳が浮かびあがってくる。冷たかった微笑み。かなしげな眼差し。やさしかった両腕。
そうだ。あの男は優しかったのだとラインハルトは思った。
そしてその優しさに甘えつづけ、ついには命まで奪ってしまったのはこの自分なのだと、彼はつよく、唇を噛みしめた。
彼の傍には、もう誰もいなかった。
ロイエンタールに初めて会った日のことは、いまもはっきりと思いだせる。
初夏の嵐の夜だった。リンベルク・シュトラーゼの下宿にキルヒアイスと二人で住んでいたラインハルトのもとを、彼が訪れたのだ。門閥貴族に不当に囚われた親友を救ってほしい、と、真摯な眼差しでラインハルトをみつめていた金銀妖瞳のうつくしさは、いまもラインハルトの脳裏に焼きついている。
この男なら分かってくれるかもしれない、と思った。なぜかはわからないがラインハルトはそう直感し、気づくと言っていた。現在のゴールデンバウム王朝をどう思うか、と。
ロイエンタールの返答は、ラインハルトの心を満足させるに十分なものだった。
それが、始まりだった。
ロイエンタールの瞳は、いつも、まるで焦がれるような色をうかべて、ラインハルトを追っていた。ラインハルトはそれに気づいていた。その眼差しの切実さは、ラインハルトがキルヒアイスを追うときのものと、同じだったからだ。
ラインハルトはキルヒアイスが好きだった。愛していた、といっても過言ではない。キルヒアイスがラインハルトではなくアンネローゼに恋焦がれていたことくらい、むろんラインハルトは知っている。それでも彼が好きだった。十歳で出会ってから、ずっと、ラインハルトにはキルヒアイスだけだった。
肌を合わせたことも、幾度もある。キルヒアイスが、ラインハルトを抱きながらアンネローゼを想っていることは分かりきっていたけれど、ラインハルトにはそれでも良かったのだ。おれの金髪を撫でながら、姉上を想ってもいい。おれの蒼い目をみつめながら、姉上を想ってもいい。おれ自身を見てくれなくてもいいから、たとえ一時でもいいから、そのぬくもりを、おれに与えてくれ。
どの夜もキルヒアイスは優しかった。ラインハルトの身体に負担をかけぬようにと、まるで宝物を抱くような仕草で、ラインハルトに快楽をあたえてくれた。そう、快楽。あれは、ぬくもりではなく、快楽だったのだと、ラインハルトは思った。その唇で、その大きな手で、ラインハルトの身体を愛しながら、アンネローゼのことだけを想っていたキルヒアイスからあたえられたものは、真情のこもったぬくもりではなく、身体的な快楽だけだった。それは当り前のことだった。ラインハルトを抱くとき、キルヒアイスはラインハルトの身体しか見てはいなかったのだから。
ラインハルトは、自分が少しでもアンネローゼに似るようにと髪を伸ばし、キルヒアイスはそれを喜んでくれた。「とてもお美しいですよ、ラインハルトさま。まるで黄金色の絹のようですね」…。
(この方が、お前はおれを抱きやすいだろう?)
心の中で呟きながら、ラインハルトは懸命に微笑んでいた。優しいキルヒアイスに、この悲しみを気づかれないように、懸命に。
ラインハルトの悲しみに気づいたのは、ロイエンタールだった。
あれは、ラインハルトが元帥府を開設し、キルヒアイスをカストロプ星系へと出征させた次の日のことだっただろうか。
一人の宿舎に帰ってもつまらぬと思い、夜遅くまで元帥府の執務室で仕事をしていたラインハルトのもとに、ロイエンタールがやってきた。
「なにか報告でも? ロイエンタール」
書類から顔をあげたラインハルトの視線の先に、端正な面立ちの年上の部下が佇んでいた。鋭い金銀妖瞳が、微笑む。
「いえ、仕事で参ったのではありません。キルヒアイスが不在で、元帥閣下もお暇でしょうから、ともに酒でも酌み交わしていただければ、と思いまして」
言いながら、右手にもったワインと左手にもった二つのグラスを掲げてみせる。ラインハルトは少し迷ったのち、頷いてやった。男の意図が、ラインハルトには透けてみえたが、なにも言わなかった。
ラインハルトの執務室の隣には充分な広さをもつ私室が完備してあり、多忙な時はここに泊まりこめるようにもなっていた。その部屋にロイエンタールを入れたのは、その日が初めてのことだった。
テーブルを挟んで向かいあって座り、ロイエンタールの持ってきた年代物の赤ワインを味わう。上品な味わいの酒で、この男らしい、とラインハルトは思った。
「そういえば、卿と二人で酒を飲むのは、これが初めてだな」
ラインハルトの言葉に、ロイエンタールが頷く。
「ええ。閣下の傍には、つねに赤毛の副官殿がおられますからね」
だからあなたに近づきにくい、と言外にほのめかしてみせるロイエンタールは、漁色家の名に恥じない手慣れた動作で、グラスをテーブルに置いたラインハルトの白い手を掴んだ。
まるで剣のように鋭い眼差し。唇の酷薄そうな笑み。魅惑的な端正な顔。甘く囁きかける低い声。
このときのロイエンタールの意図は明瞭で、そしてラインハルトには拒む意思が希薄だった。
なぜだろう。疲れていたのかもしれない。そう、キルヒアイスを想うことに。
ラインハルトはロイエンタールの腕の中で抗わなかった。男がラインハルトの襟を寛げ、首すじに顔をうめ、胸元に舌を這わせても、ラインハルトはなにもいわなかった。どうでもよかったのだ。こんな身体など。
けれど同時に、願うように思った。キルヒアイスがこのことに気づいたら、嫉妬してくれるだろうか。少しでも、おれに執着してくれているだろうか、と。しかしすぐに自嘲した。そんなことはありえない。キルヒアイスはきっと、悲しげな顔をするだけだろう。
上の空のラインハルトを現実に引き戻すように、ロイエンタールが奪うような口づけを寄こす。ラインハルトは男の舌に応えながら、自分の視界が次第に歪みはじめるのを知覚していた。なぜ、涙が出るのだろう。キルヒアイス以外の男に抱かれるのはいやだ、と心が、魂が叫んでいるのだろうか。
嗚咽をもらしはじめたラインハルトを見下ろして、ロイエンタールは苦笑していた。「まるで子どものようですね」と優しく囁きながら、けれど彼の指も、舌も、残酷なほどの技巧でもってラインハルトの泣き声を増幅させていった。
脚を広げられ、身体を繋げられる。いまさらにラインハルトは抗おうとしたが、もう遅かった。突きこまれ、抉られる。まるで人形のように乱暴に揺さぶられ、息すらもできなかった。視界のなかに映るのは、愛しい赤い髪ではなく、ダークブラウンの頭髪で、触れあう体温も、声も、なにもかも違うのだ。身体の真奥にロイエンタール自身を深く突き入れられながら、どうしようもなく、ラインハルトは絶望していた。なにに対して絶望しているのか、自分でもわからないままに。
自分の下で啜り泣くラインハルトを、観察するような冷たい視線で見下ろしながら、まるで独り言のように、ロイエンタールは呟いた。
「まるで子どもだな、本当に」
その声に、ラインハルトは答えることはできなかった。
「いつまでも泣いていないで、服を着たらどうですか」
行為の後、手早く衣服を身に付けたロイエンタールは、ソファの上で顔をおおって泣きつづけているラインハルトを見下ろして言った。かすかな苛立ちの滲むその声は、ラインハルトの耳に突き刺さるように響いた。
顔をあげたラインハルトを見下ろす青と黒の金銀妖瞳は、鋭さと苛立ちと哀れみをたたえて、暗闇の中で宝石のように輝いてみえる。
「…なぜ、私を抱いた?」
ラインハルトは呟いた。小さな掠れた声しか出なかったが、それでもロイエンタールの耳には届いたらしい。男は片膝をつき、ラインハルトと目線を合わせた。
「一度抱いてみたかったんですよ。あなたは美しいから」
歌うようなその口調に、神経を逆なでされる。思わずラインハルトはロイエンタールの頬を平手打ちしていた。鋭い音が室内に響き、一瞬の沈黙が二人を支配する。しかしすぐに、その静寂は破られる。ロイエンタールが笑いはじめたのだ。ラインハルトを嘲るような笑い声だった。
「なにを笑っている!? お前は…お前は…っ!」
癇性に叫んだラインハルトの顎に手をかけて、ロイエンタールはまるで、恋人に囁きかけるような声で言う。
「同性の幼馴染に叶わぬ恋をするなど、そんな子供じみたことはもうやめた方がいいでしょう。傷つくだけだ。あなたも、あの赤毛の男も、…あなたの美しい姉君も」
ロイエンタールの言葉に、息が止まる。ラインハルトは目を瞠き、たったいま自分を犯した部下の顔を凝視した。
「何を、ばかな…」
声が中途でかき消える。自分の身体から力が抜けていくのがわかる。ラインハルトは目の前が昏くなっていくような気がした。自分でも分かりきっていたことを、他人から指摘されると、これほどのダメージを受けることを初めて知った。
そんなラインハルトの唇に、ロイエンタールの親指が優しく触れる。上向かされて、口づけられる。愛情の欠片もない身勝手さでラインハルトの口内を犯し、ロイエンタールはやはり、おかしげに笑った。
「これから宇宙を手に入れる覇者とは思えませんな、ローエングラム伯ラインハルト閣下。…お寂しいときはいつでも小官をお呼びください。お慰めしますよ」
立ちあがり、背をむけて部屋を出て行く男の後ろ姿を呆然と見送りながら、ラインハルトは涙を流しつづけていた。
なにが悲しいのかは、自分でもよく分からなかった。
キルヒアイスがカストロプ星系から帰還したのは、それから九日後のことだった。
オーディンに到着後、彼はまず国務尚書リヒテンラーデ侯のもとへ報告に行き、その後、ラインハルトと二人で住んでいる官舎へと帰ってきた。
「キルヒアイス…キルヒアイス!」
赤毛の友の姿を目にしたとたん、ラインハルトの心は挫けてしまった。ロイエンタールに犯されてから今日まで、なんとか気力を保って仕事に精励してきたつもりだが、やはり傷つけられた心の痛手は深かったのだ。
部屋に入ったとたんにラインハルトに抱きつかれたキルヒアイスは驚いたように目を瞠ったが、「どうなさいました?」と優しい声で問いかけて、慰めるようにそっと髪を撫でてくれた。
キルヒアイスの胸に顔をうめて、目に涙を浮かべながら、ラインハルトは何も言わなかった。お前のいないあいだにロイエンタールに無理強いに抱かれたのだ、などとは言えるはずもなかった。だからただ、声もなく、キルヒアイスに抱きついているしかなかった。
「ラインハルトさま…」
困ったようなキルヒアイスの声。それでも彼は、その優しい両腕で、ラインハルトを抱きしめてくれた。
ラインハルトが涙に濡れた目で、縋るように見あげれば、そっと触れるような口づけをくれる。それが心地よくて、もっと欲しいとねだる。キルヒアイスは拒まなかった。彼はいつもそうだった。ラインハルトが求めれば与えてくれる。けれど、キルヒアイスの方からラインハルトを欲したことは、一度もなかった。
もう一度、キルヒアイスの広い胸に顔をうめて、ラインハルトは消え入りそうな声で言った。
「…寝室へ行こう?」
優しく肩を抱いて、いまにも崩れ落ちそうなラインハルトの身体を支えてくれる赤毛の友の体温を噛みしめながら、心の中で叫ぶ。
(ごめんなさい、ごめんなさい、姉上…!)
自分は卑怯で惨めな罪人だ、と思った。それでも愛しい人の慰めが欲しかった。
【続く】